2018年04月24日14時43分掲載
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コラム
<<放送局のパワーハラスメントを考える>> オーソドックスなドキュメンタリーの歴史書が必要
去年の春、ある放送局で仕事の打ち合わせをした際に初めて会った女性のプロデューサーは僕よりも10歳ほど若い人だったのだが(つまり経験もそれだけ少ないはずなのだが)、初対面でいきなりドキュメンタリー論を上司の立場から話し始めて、それが普遍的なドキュメンタリーの常道のような高圧的な口調だったので驚いた。というのもまず相手がどのような経験を持った作り手であるか、それすらはっきりと理解しないままに一方的にドキュメンタリー論を展開してそれを押し付ける、ということが僕には理解できなかったからだ。1つの放送局における1つの番組の制作指針あるいはスタイルである、ということなら理解できる。放送局にも番組製作上の方針があるからだ。しかし、そのプロデューサーは普遍性のもとに話していたのである。実はその放送局では一斉にその時期、金太郎飴のようにプロデューサーたちが同じようなことを口々に話し始めたのだった。
これは何を意味するか、と言えば普遍性のもとに話しているドキュメンタリー論だが、実はその人の上司から「これからこういう方針で行くぞ」と命じられたことをオウムのように出入りする制作会社の作り手に押し付けていただけなのだと思える。想像すると、多くの制作会社はそのように言われると「おっしゃる通りです」と言って何も反論できないのが現状ではなかろうか。でなかったら、皆さまの放送局に出入りすらできなくなりかねない。実際、僕がこれまでどのようなものを作ってきた人間かを伝え、その放送局の女性プロデューサーとドキュメンタリーについて話し合おうとしたら、さっそく制作会社に僕を番組からはずせと彼女から強い圧力がかけられたのだ。この経験で仕事をやる意欲がなくなった。僕と同じような経験をした人がいないことを祈る。
ドキュメンタリーとは何か、というのは人さまざまな考え方がある。また、取材対象によってどういうアプローチや表現がよいか、ということも変わって来ると僕には思える。つまり、最初からこういうアプローチでしかダメ、というのは特定の番組枠ならあり得るけれど、それをドキュメンタリー全般の普遍性の元に語るのは違うのではないか、と思う。しかしながら、ドキュメンタリー映画の歴史と放送ドキュメンタリーのオーソドックスな歴史に関する本が書店にほとんどないために(昔はそこそこ書店の棚にあった)、今ではドキュメンタリーがどのように発展してきたのか、ほとんどの人が理解していない。だから、僕の経験したような状況にさらされると、「はい、そうですか」としか言えなくなるのではなかろうか。
多くの場合は普遍性の名の元に、自分の思想を出入り業者に一方的に押し付けるパワーハラスメントを行っているに等しい。そしてここが肝心だが、そのようなことは放送局の中で構造化されている。誰か個人が問題と言うのではなく、上から下まで高圧的な流れが作り上げられており、それに反する人間は排除する、ということだ。ここで差別と思想統制が手を携えている。相手の人格は無視する。このような状況が安倍政権に入ってから、特に自公が3分の2を両院で握り、日本会議福岡名誉顧問の石原進氏が経営委員長になった2016年の夏以来、色濃く見えるようになった。先述した僕の経験も2017年のことだ。僕がやってきた番組作りが新しい方針に合致しなかったのだろうか。番組を作る以前にまずワシに背中をつかまれるような事態である。
南田望洋
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