2018年06月18日11時53分掲載
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終わりなき水俣
吉田道子先生のこと 牧尾 朝子
石牟礼道子さんもメンバーだった「本願の会」の季刊誌『魂うつれ』には、この偉大な作家の死を悼む水俣病患者はじめ、地元熊本を中心とする多くのゆかりの人たちの声が寄せられた。そのなかから、ご子息の石牟礼道生さんの「母のことそして父のこと」と、石牟礼さんの小学校教諭時代の教え子牧尾朝子さんの「吉田道子先生のこと」を紹介する。
吉田道子先生のこと
牧尾 朝子
“海と空のあいだに”石牟礼道子さんの歌集に、「掃き残されし落葉のしずかに他に着きてたそがれてゆく田浦の駅」の歌があります。その田浦駅から歩いて三十分ぐらい掛る所に、田浦小学校があり石牟礼道子さんは吉田道子先生として赴任されたのである。
今から七十余年前のこと。私が小学校(その頃は国民学校と言っていた)三年生の時、吉田先生が担任でした。石牟礼道子さんが、吉田先生だと知ったのは平成八年頃だったと思う。それまで同級生の誰一人として先生の消息を知る人がいませんでした。五十年振りにわかったのです。もうその時は先生は文筆家として活躍され多忙な毎日の様子でした。
お会いした時はとても嬉しく、あのやさしい先生の姿を思い出し先生もその頃の事を憶えていられました。取材の為、ある集落に行き教え子がいたこと、家庭訪問のこと、私のことは元気の良い女の子であったこと、今にしてみればその時の性分が現在の自分にあるように思われる。先生は叱言をされたこともないし生徒にしてみれば本当にやさしい先生であった。もっと早く吉田先生の存在がわかれば同級生を集めてその頃の話が出来たのに。
私と先生が今までつないで来たものは、三年生の時の通知表が私の手元にあったこと、そして先生の手書きの文字がきれいに書かれていたこと、教科概評や、日常生活状況等が記入されていたことが一層私に親近感をつのらせたと思う。
時折来客があるので手伝いに来てくれないかと、連絡があり「今日のお客様は鯖ずしを食べたい」と言われて先生の作る鯖ずしは天下一品だったらしい。色々料理が上手だったし、人を持て成すことをとても楽しんでいられるようだった。
昨年の夏、施設をたずねようと、連絡したところ病院に入院中との事、以前私が作った蓬(よもぎ)饅頭(まんじゅう)を美味しかったとある企業のPR誌に書いていられることを思い出してお土産に蓬饅頭を作って持って行った。ベッドの上で饅頭を食べ「何年振りに食べた」と言われ蓬饅頭にして良かったと思いました。
「石牟礼さんリハビリの時間です」と看護師さんが呼びに来られ「今日はお休み」と、私との時間を作って下さいました。
病室を出る時先生は「ぶえんずしを食べたい」と言われ、海辺に育ったものしか解らないのだが、私は「次に来る時作って来ますね気候が涼しくなってから」と言いこれが最後の先生への言葉となった。そしてそれが果たせなかったことが残念である。
世界的に偉大な作家だが私共にとっては、小学校のやさしい先生、他に思い出すことはあまりにも年月過ぎて思いだせないが、先生がなされたことは社会的に皆が認めることです。その先生から教えを受けた者は老耄(おいぼれ)になっても忘れることはないでしょう。
*この記事は、本願の会の会報「魂うつれ」第73号(2018年5月)からの転載です
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