2018年06月19日16時13分掲載
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社会
京大「立て看」撤去に抗議の人間立て看 根本行雄
京都大が本部のある吉田キャンパス(京都市左京区)周囲の立て看板を規制し始めて、6月1日で1カ月が過ぎたという。抵抗する学生らとの攻防が続く中、市民や弁護士のグループも市や大学に再考を求める要請書を出すなど、反対の動きは学外にも拡がっている。京大は5月31日、百万遍交差点に面した北西角にあった立て看板を撤去したが、すぐに大学当局を批判する貼り紙が貼られ、さらに6月6日までに吉田寮祭の案内や、「タテカン文化ヲ防衛セヨ」「タテカン製作志願者募集」との呼びかけ、石垣を描いた立て看板が設置されていた。京大は吉田キャンパスの本部敷地南側正門付近と、北西の百万遍交差点に面した石垣に設置されていた立て看板などを撤去した。規制に基づく強制撤去は4回目。 正門付近にも規制に反対する工作物などがあったが、全て撤去された。 これに対し、6月7日午後に「人間の立て看板」が登場した。規制に反対する卒業生(25)が本部敷地南側で「私を撤去せよ」という立て札と共に座り込みを始めたのだ。景観の捉え方は多種多様であり、権力が強制的に干渉することは国民の基本的人権を侵害するものである。
70年安保世代であるネモトにとっては、「立て看」とはなつかしいものだ。「立て看」の文字には、独特の書体があり、美醜にかかわりなく、それはわたしたち人間の表現行為として価値のあるものであることは、いまさら論ずるまでもないほど、明々白々なことだ。しかし、安倍政権が台頭する時代になり、いつのまにか、人間の基本的人権の思想についての理解と認識が希薄になりつつある。
第十九条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
第二十三条 学問の自由は、これを保障する。
日本国憲法には明記されていないが、人民の抵抗権(革命権)は私たち人間にとっての基本的人権の一つである。
アメリカの「独立宣言」を見よ。
「われわれは、自明の真理として、すべての人は平等に造られ、造物主によって、一定の奪いがたい天賦の権利を付与され、そのなかに生命、自由、および幸福の追求の含まれていることを信ずる。また、これらの権利を確保するために人類の間に政府が組織されたこと、そしてそしてその正当な権力は被治者の同意に由来することを信ずる。そしていかなる政治の形体といえども、もしこれらの目的を毀損するものとなった場合には、人民はこれを改廃し、それらの安全と幸福とをもたらすべしとみとめられる主義を基礎とし、また権限をもつ、新たな政府を組織する権利を有することを信ずる。」
フランスの「人権宣言」を見よ。
「第1条 人は、自由、かつ、権利において平等なものとして出生し、かつ生存する。社会的差別は、共同の利益の上にのみ設けることができる。
第2条 あらゆる政治的団結の目的は、人の消滅することのない自然権を保全することである。これらの諸権利は、自由、所有権、安全および圧制への抵抗である。
第3条 あらゆる主権の原理は、本質的に国民に存する。いずれの団体、いずれの個人も、国民から明示的に発するものでない権威を行い得ない。」
想起せよ。人類の歴史は人権をめぐる戦いの歴史である。
□ 立て看撤去についての報道
毎日新聞(2018年6月2日)の菅沼舞、飼手勇介、国本ようこ、3名の記者たちは、次のように伝えている。
京都大が本部のある吉田キャンパス(京都市左京区)周囲の立て看板を規制し始めて1日で1カ月が過ぎた。抵抗する学生らとの攻防が続く中、市民や弁護士のグループも市や大学に再考を求める要請書を出すなど、反対の動きは学外にも拡大。学生側が立て看板に関する学習会を開いたり、芸術家が制作の請負を宣言したりするなど、新たな動きも出ている。
京大は市から屋外広告に関する条例違反との行政指導を受け、敷地内に許可した場所と期間に公認団体のみ設置を認める規制を5月1日から実施し、13日、強制撤去に踏み切った。撤去された立て看板が保管場所から持ち出されたり、新しい立て看板が設置されたりするなど学生らは抵抗。大学側は31日朝の3回目の撤去で、キャンパス北西側の「百万遍交差点」付近と西側にあった数枚の立て看板やビラなど約20点を一掃した。だが、その後も批判ビラが張られ、6月1日朝までに規制反対への賛同メッセージを掲示した立て看板も設置されるなど「いたちごっこ」が続く。
規制への反対や疑問の声は教職員の中からも上がるが、大学側は話し合いに応じていない。5月28日には学生有志が山極寿一学長に説明を求める公開質問状を提出。山極学長は30日、毎日新聞の取材に「ノーコメント」とした。
規制への反対は学外にも広がり、京大OBの弁護士138人は「憲法で保障された表現の自由を脅かす危険がある」との共同声明を発表。周辺住民ら約30人で作る「立て看文化を愛する市民の会」は市に条例改正と行政指導撤回を求める要請書を出し、京大にも見直しを求めている。
現役の京大生からは「規制は表現の自由を奪う」との声が多いが、「京大だけ特別扱いはおかしい」との意見も聞かれる。京大広報によると、外部から数十件の意見が寄せられたが、内容は記録していない。市にも5月31日までにメールや電話などが計29件寄せられ、うち26件が「もっと柔軟に対応すべきだ」などと規制に反対する内容だったという。
□ 立て看撤去の「攻防戦」(*毎日新聞の記事の切り抜き帳)
まず最初に、毎日新聞(2018年6月2日)に掲載されている、八木晃介花園大学名誉教授(元毎日新聞記者)の文章を引用しておこう。この「立て看」問題の背景が簡明に紹介されているからだ。
「京大タテカン問題」は本紙でも報じられたので御承知の読者も多いと思います。昨年来、京都市が「京都市屋外広告物等に関する条例」に基づいて京大当局への行政指導を実施したのがことの発端でした。つまり、市は学生たちのタテカンを、常時あるいは一定期間継続して屋外で公衆に表示される“屋外広告物”であり、条例が設置を禁止している擁壁への立てかけや公道の不法占拠にあたるなどと判断したわけです。市の「京(みやこ)の景観ガイドライン」(2016年11月)によると、建築物の高さとデザイン、屋外広告物の規制などを全市的に見直した新景観政策を07年に実施したとあり、タテカンが都市景観の点からも問題視されていることが分かります。
市の指導を受けた京大当局は、昨年12月19日、「京都大学立(たて)看板規程」を公表しました。それによると、この5月1日以降、(1)立看板の設置は学長(規程の表現では総長)が承認した団体が行うものに限る(2)立看板は、本学が別に指定する場所以外に設置してはならない(3)立看板は、縦200センチ、横200センチ以内のもの(4)立看板の設置期間は30日以内とする−−などと相当厳しい内容になっています。むろん、京大の内外からの批判は強く、2月13日には学生、教員、卒業生ら450人が結集して「京大の学内管理強化を考えるシンポジウム」も開催しました。
* 以下は、毎日新聞の記事の切り抜き帳である。
京都大の立て看板規制で、大学当局がキャンパス内に指定した場所への設置を非公認団体に認めないのはおかしいなどとして、学生有志が5月28日、山極寿一学長に説明を求める公開質問状を提出した。また、5月13、18日にあった大学当局による撤去に異議を申し立て、説明会開催を求める学長宛ての要望書も提出した。
京大による吉田キャンパス周囲の立て看板規制を巡り、京都や大阪などで活動する弁護士138人が5月22日、憲法で保障された表現の自由を脅かす危険があるなどと指摘する共同声明を発表した。京大に対し、立て看板の強制撤去の見直しを強く求めている。同日付で京大と、規制理由である屋外広告条例を定めた京都市に送付する。 声明は「学生が設置する立て看板は大半が意見表明や学内団体の活動に関するもので、学生の自主的な活動を対外的に表現するもの」とし、言論表現の一つとして憲法上自由が尊重されるべきだとしている。
学生有志のグループ「それいけ!タテカンマン」で、質問状では▽非公認団体に立て看板を出す権利が認められていない理由▽通告書が貼られていない立て看板の撤去は、どの規定に基づいているのか▽撤去を決定した機関名▽Tシャツなど立て看板以外の工作物の撤去の根拠となる規定−−の4項目を挙げ、6月11日を期限に回答を求めている。
市民らが作る「立て看文化を愛する市民の会」のメンバーが5月28日、市議会の寺田一博議長に景観条例の運用見直しなどを求める陳情書を提出した。 京大の立て看板は「学生街ならではの景観を構成する文化的表現」と指摘。条例の理念を再確認し、立て看板に対する規制を緩和することなどを求めている。
京大は5月31日、百万遍交差点に面した北西角にあった立て看板を撤去した。
百万遍交差点に面した北西角には、2回目の撤去があった5月18日以降、山極寿一学長や門川大作市長を皮肉ったとみられる立て看板や、規制に反対する声明が書かれたビラなどが掲示されていた。
5月31日朝に職員が撤去したが、すぐに「貼り紙は看板規程対象外のはずです」「立て看板置き場、1000万円の税金。対話0円」などと書かれたビラが貼り出されていた。
市民有志でつくる「立て看板文化を愛する市民の会」は6月1日午前、山極学長と理事会に対し、立て看板規制を見直し、市による行政指導に抗議するよう求める要請書を提出した。同会はこれまで市や市議会に、規制のきっかけとなった屋外広告に関する条例を見直すよう求める要請書や陳情書を提出しており、学長宛ての要請書では「立て看板の一方的排除は表現の自由の否定で、大学自治を自ら踏みにじる蛮行だ」と大学の対応を批判している。
同会はまた、立て看板を残すよう求める署名活動を開始し、百万遍交差点近くで道行く人や学生たちに署名を呼びかけた。
さらに6月6日までに吉田寮祭の案内や、「タテカン文化ヲ防衛セヨ」「タテカン製作志願者募集」との呼びかけ、大学当局を批判する貼り紙が貼られ、石垣を描いた立て看板が設置されていた。
京大は6月7日、吉田キャンパス(京都市左京区)の本部敷地南側正門付近と、北西の百万遍交差点に面した石垣に設置されていた立て看板などを撤去した。規制に基づく強制撤去は4回目。京大は撤去枚数を明らかにしていない。
6月7日午後に「人間の立て看板」が登場した。規制に反対する卒業生(25)が本部敷地南側で「私を撤去せよ」という立て札と共に座り込みを始めた。「在学中は立て看板に興味がなかったが、立て看板がなくなった京大は面白くないし、このままではおとなしくなってしまう。大学当局が一方的に撤去するのもおかしい」と批判した。
□ 芸術論、景観論
毎日新聞(2018年6月2日)の菅沼舞記者たちは、次のように伝えている。
学生らで作る「立て看規制を考える集まり」準備会は5月26、27日に立て看板の技術を継承するワークショップを開き、参加者に字体や絵の描き方などを教えた。「それぞれの団体で技法が受け継がれてきた。規制でなくなれば廃れてしまう」とメンバーは話す。
規制に対抗する動きはアート界にもある。京都市立芸大の学生は「立て看板は価値ある景観の一つ」として5月19、20日に立て看板38枚を集めた展覧会を開催。京都造形芸術大の椿昇教授はフェイスブックで「看板を作ります」と請負を表明した。ゼミでも立て看板制作者との対談や見学などを実施。「撤去前に比べ、内容が格段に面白くなっている。規制をプラスに捉えると創造性が生まれる。『立て看板を守りたい』という京大生を応援したい」と話す。
「百万遍で唯一景観と呼べるものが立て看板だった。それをなくしても将来的なグランドデザインがなければ意味がない」。椿教授は市を批判し、「立て看板による健全な批判がないと面白いものは生まれない」と京大にも苦言を呈している。
毎日新聞(2018年6月2日)に、八木晃介花園大学名誉教授(元毎日新聞記者)の文章が載っている。
今回の「京大タテカン問題」から浮かび上がる問題点を筆者なりに整理すると、都市景観の問題と、思想・表現の自由と大学管理との関係の問題の2点に集約されます。
まず都市景観ですが、筆者はさまざまな文献にあたってその定義を調べてみましたが、万人が納得できるような安定した定義は見当たらず、せいぜい「都市が歴史的、伝統的に培ってきた固有の街並みや景色」というあたりで共通する程度でした。が、この定義にしてもはなはだ抽象的であって、実のところ、何も言っていないに等しい。冒頭に記したビラ貼り裁判では、被告側証人として出廷した美術評論家の故・針生一郎和光大学教授が「ビラや落書きも都市の美観を構成する」と説明、パリの公共建造物の壁などには何世代にもわたるビラが貼られ、落書きがなされ、ユトリロや佐伯祐三などの画家はそれらを“都市の美”として認識して作品にも反映させたと証言しました。針生証言が裁判官の心証形成にかなり影響したことは間違いなく、無罪判決文にもこの証言がかなり採り入れられていました。
百万遍交差点を中心にした京大周辺のタテカンは、筆者の観点からすれば、“大学の街・学生の街”京都を象徴的に表現する都市景観だと思われ、個人的には常々好ましく眺めてきました。逆に、京都市が景観上ほとんど問題にしないJR京都駅前の京都タワービル(1964年開業)や、京都市の南北を分断するある種牢獄(ろうごく)的な外見のJR京都駅ビル(97年開業)の方が景観としてはるかにグロテスクであると感じてきました。あくまでも筆者の主観ではありますが、景観の捉え方は多様であってしかるべきだと考えます。
次に、大学の管理強化の問題について。筆者の学生時代(1960年代中頃)はいわゆる“政治の時代”、どの大学にも政治的主張や大学当局批判のタテカンがあふれ返っていました。その後、学生運動の衰微、青年層の総体としての保守化・右傾化、2004年の国立大学の法人化による管理強化などが重なって、タテカンは急速に大学から姿を消していきました。筆者が仕事をしてきた花園大学でも、タテカンが大学の外壁を飾るのは大学祭の時だけになっています。大学のタテカン文化がかろうじて命脈を保っているのは、今や京都では京大くらいのものでしょう(東京の友人によれば、東大のタテカンも消滅したとのことです)。
京大の山極寿一学長は、学長(総長)就任のメッセージ(14年10月)で、京大を「自由な学風の学問の都」と規定し、「学生たちが大学の主役」とも述べました。しかし、今回のタテカン問題について、大学当局が“主役”である学生・院生との丁寧な話し合いの機会をもったという話は聞きません。大学の法人化以降、どの国公私立大学でも上意下達方式を慣例化し、早い話が、かつては最高の議決機関だった教授会が単なる伝達機関になり下がっている場合も多いのが現状です。こうした客観情勢の変化が、京大の伝統だった“風通しの良さ”を阻害しているのではないかと部外者ながら感じます。
タテカンであれビラ貼りであれ、いかにSNSが拡散している現代でも、これらはヒトの意思伝達手段としてもっとも簡便で直接的な方法であり、特に学内での表現手段としては学生文化を具現する相当貴重なものでもあるのではないかと、筆者は、あまり多くの賛同を得られないだろうと覚悟しながらではありますが、そのように考えます。
ネモトは、京大の「立て看」問題の記事を読みながら、ピカソの『アビニヨンの娘たち』を思い出した。この作品は、1907年にパブロ・ピカソがアフリカ彫刻に興味を持っていた時期に製作されたものである。そして、これが後に起こる「キュビスム革命」の発端となったと言われている。この作品は、美術を「ファインアート」とする枠組みを破壊したものである。キュビスム以降、芸術とは、美醜を超えたものであり、見るものにインパクトを与えるものへと変化した。現代美術はさらに変化し、進化している。
芸術とは、美醜を超えたものであり、見るものにインパクトを与えるものである。ネモトは、現在の京大の「立て看」を見てはいない。新聞に掲載された写真を見ているだけである。
八木氏が述べているように、景観の捉え方は多種多様である。それに対して、権力が強制的に干渉することは国民の基本的人権を侵害するものである。「大学当局が“主役”である学生・院生との丁寧な話し合い」を行い、文化を育てていくことが必要不可欠のことであり、肝心かなめである。
安倍政権が台頭する時代になり、いつのまにか、人間の基本的人権の思想についての理解と認識が希薄になりつつある。
今こそ、私たちは、フランスの「人権宣言」を想起しよう。「人権の不知、忘却または蔑視が公共の不幸と政府の腐敗の諸原因にほかならない」
付記 その1
アメリカの「独立宣言」、フランスの「人権宣言」の引用は、岩波文庫の『人権宣言集』(1978年26刷)を使用した。
付記 その2
八木晃介花園大学名誉教授の文章は、2つに分けて引用しているが、ほぼ全文を引用してる。ネモトは八木氏の意見には基本的に賛成である。勝手な要約や、部分的な引用が、恣意的な解釈や、偏見にもとづくものになることを避けるために、ほぼ全文を引用することになった。八木氏にはご海容を、ベリタの読者にはご理解をお願いしたい。
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