2018年08月19日23時02分掲載
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コラム
「自由に書けることの功罪」──周回遅れの読書報告(その69) 脇野町善造(わきのまちぜんぞう)
栗原百寿の名前を知ったのは、大学の4年目の年であったように思う。読んだのは彼が戦時中(1943年)に書いた『日本農業の基礎構造』である。戦後に再刊されたこの本の序文で栗原はこれを「奴隷の言葉で書かれた本だった」という趣旨のことを語っていたが、戦前の日本農業の基礎構造を的確に解明した名著だと思った。そのあとで、栗原が戦前東北大学にいた宇野弘蔵の教え子の一人であり、戦後の農民運動に大きな足跡を残した常東農民運動の理論的指導者であったことを知った。
栗原はこの本が出た後、治安維持法違反で逮捕された。戦後、「これで自由にものが書ける」と喜んで宇野に手紙を寄こしたのに対して、宇野が「自由にものが書けるということは、決して自由に学問的成果をあげうることではない」とたしなめたことがあった。宇野は、栗原の死後にまとめられた『農業問題の基礎理論』の「序」にそのことを、次のように書いている。
たしか終戦の年の暮であったかと思うが、(栗原君は:引用者)この著作(『日本農業の基礎理論』:引用者)の完成直後の投獄から釈放されて郷里に帰ったとき、私に宛てて敗戦による解放で自由にものの書けることを非常に喜ぶと同時に将来の活動に対する希望を述べた便りを寄こしたことがあった。もちろん私も、彼のこの年来の希望に対してその達成の時機の到来したことを喜ばずにはいられなかったのであるが、しかし自由にものの書けるということは、決して学問的成果を自由にあげうることではないという──いわでものことを書き添えずにはいられなかったのであった。
『宇野弘蔵著作集別巻』205頁
宇野のこの戒めがひどく気になった。栗原は宇野の愛弟子であった。戦後の栗原の苦闘、早すぎる死に際して、宇野はひどく悲しんだ。その宇野がこういう戒めをしているのである。「人間の想像力は自由よりも制約によって刺激される」という山崎正和の意見もある(朝日新聞社『一冊の本』2001年9月号)。私自身、定年退職して自由になった後、何をやったかと自問すると、ほとんど返答のしようがない。なんでも自由にできるということはむしろ精神を弛緩させてしまうと考えたほうがいいのかもしれない。山崎の言葉が身に滲みることがある。
宇野は上述の戒めを「いわでものこと」としているが、決してそうではあるまい。多くのもの書きは種々の制約を書き物の不完全さ、不十分性の言い訳にしがちである。しかし、実際は逆にその制約性こそが──場合によっては極度の──精神の緊張を生み出し、書いたものを斬新なあるいは独創的なものとする場合のほうがずっと多いのである。「自由にものの書けるということは、決して学問的成果を自由にあげうることではない」ということを絶えず自戒する必要がある。
しかし逆に、「学問的成果」を挙げる必要がなかったら、もう自由に書いていいということなる。最近の「成果」は、何やらそういうものばかりではないかという気もするが、「大学行政に追われて研究のための時間がとれない」などと弁解している研究者は、もう一度この宇野の言葉をかみしめてみたほうがいいのではないか。仕事は忙しい人間のほうが効率的に出来るのと同じである。締め切り間際になってから、時計とにらめっこしながら原稿を書いているジャーナリストのことが思い出される。
栗原百寿『日本農業の基礎理論』(中央公論社、1942年)
宇野弘蔵『宇野弘蔵著作集別巻』(岩波書店、1974年)
脇野町善造(わきのまちぜんぞう)
ちきゅう座から転載
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