2018年08月19日23時18分掲載
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コラム
「国家主義の誘惑」を見てー「国体論」の疑問 子安宣邦(こやすのぶくに):大阪大学名誉教授
映画「国家主義の誘惑」の前宣伝にネット上で一役買いながら、映画そのものを見ることをしないのは無責任だと思い、猛暑の中を上映館「ポレポレ東中野」に行ってきた。もう数日前から上映は始まっていながら、ネット上にこの映画をめぐる反応がないのが気になっていた。それにこの映画の宣伝中に白井聡の名前がやたらにあることも私には気になることであった。月曜の昼下がりにもかかわらず入場者はかなり多かった。
「今日は北朝鮮はミサイルを発射した。こういう報道がありますが、とんでもない話であります」という安倍の街頭演説からこの映画は始まった。これを見て即座に私は自分の思い違いを覚らされた。私はわざわざフランス語版“Japon,La Tentation Nationaliste” として作ったこの映画に、「日本国家主義」へのわれわれが見ることのない新鮮な切り口を期待した。だがこれは全く私の思い違いであった。
一言でいってしまえば、この映画は白井の「菊と星条旗」を映像化したものにすぎない。その結果、「国家主義の誘惑」は下手で安上がりな反安倍的イデオロギー映画になってしまった。こんな映画で安倍はビクともしまい。これはせいぜい白井聡と「菊と星条旗」の宣伝になっただけではないのか。だが「菊と星条旗」の映像化としてのこの映画の失敗は、「菊と星条旗」を副題とした白井の『国体論』そのものの問題をあらわに見せてくれた。
「戦前のレジームの根幹が天皇制であったとすれば、戦後レジームの根幹は、永続敗戦である。永続敗戦とは、「戦後の国体」であると言ってもよい」(『永続敗戦論』)と白井は、戦前的国家・国民的体制も戦後のそれも「菊と星条旗」と指標的中心を異にしながら、顕教・密教的な構造的性格を共にしている「国体」として再構成する。「要するに、天皇にとって安保体制こそが戦後の「国体」として位置づけられたはずなのである」(『昭和天皇・マッカーサー会見』)という豊下楢彦の言葉によって白井は、「永続敗戦は「戦後の国体」そのものになった」ことを理解する。かくて20世紀の超国家主義的「靖国日本」の実現も21世紀の歴史修正主義的「靖国日本」への再生要求もともに「国体」の名をもってとらえられる。かくて戦前・戦後日本の国民国家的構成体はともに「菊と星条旗」の「国体」として解釈的に再構成されるのである。それはまさしく「国体論」という構造主義的な解釈的な再構成作業である。戦後の対米的政治史・外交史についての鋭利な解釈は、ここではすべて「星条旗の国体」論の構成のために費やされることになるのだ。
こうしてベストセラー『国体論ー菊と星条旗』は成立する。そしてこの書とともに「国体」はもう一度時代のタームになったようだ。だがこれが時代のタームになったとき、20世紀の比類無き天皇制的全体主義国家日本の「国体」も21世紀の世界史的な後ろ向き的国家日本の歴史修正主義的「国体」も人びとはともに見失うことになるのではないか。
白井の本は終章にいたって腰砕けする。『永続敗戦論』も『国体論』も終章にいたって何でこんなことをいうのかと訝る文章に出会うことになる。『永続敗戦論』の末尾で白井は、「自国民への責任すら満足に追及できない社会は、共感度が薄くなりがちな他国民への責任の問題に本来的な意味で取り組む能力を持たない。歩くことすらできないのに走ることはできない」といっている。これは一体何だ、ほとんど唖然とする思いでこれを読んだ。さらにもっと驚くのは、『国体論』の末尾で平成天皇の退位をめぐるお言葉についてのものである。このお言葉によって白井は、「アメリカを事実上の天皇と仰ぐ国体において、日本人は霊的な一体性を本当に保つことができるのか」という問いを自らにつきつけたことをいっている。「霊的な一体性」などという語彙が白井に存在することに私は驚く。これらの言葉はそれに先立つ著者の論述をすべてチャラにしてしまうような代物である。
子安宣邦(こやすのぶくに):大阪大学名誉教授
初出:「子安宣邦のブログ・思想史の仕事場からのメッセージ」2018.08.17より許可を得て転載
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