2018年09月02日13時35分掲載
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核・原子力
『森瀧市郎 核と人類は共存できない 核絶対否定への歩み』を読む(2) 森瀧春子さんの「水棹のむ背の如く―解説に替えて」から 山崎芳彦
森瀧市郎『核と人類は共存できない 核絶対否定への歩み』(2015年8月、七つ森書館刊)に、森瀧市郎さんの次女・森瀧春子さんが「水棹をのむ背の如く―解説に替えて」を書いている。森瀧市郎さんの詠った短歌を交えながら、核絶対否定への道を歩んだ歴史、足跡を父を師として、そしてともに歩んだ春子さんの「解説に替えて」は、森瀧市郎さんの人間像、思想と実践を、筆者に深く語り、教えを受けさせていただく貴重な文章であった。同書を未読の方には、ぜひ一読をと筆者は思っている。筆者も知人に教えられて読むことができたことを本当にありがたいことだと思っている。
森瀧春子さんの「水棹をのむ背の如く」を読ませていただく。筆者は、短歌作品とともに、春子さんの精密な記録、「核絶対否定への歩み」を父・市郎さんと歩んだ深くゆるぎない確信、そして深い父への愛情と信頼に感動を覚えさせられた。その森瀧春子さんの文章を記させていただくが、一部、筆者の「注記」により、省略させていただいた部分があることなどを記しておきたい。不適切・不行き届きがあれば、お許しを願う。
なお、森瀧春子さんは1939年、広島市生まれ。広島大学卒業後、教職員として勤務。1996年に退職後、1998年のインド・パキスタンの核実験以来、両国の青年たちを広島に招くなど交流・平和学習のプロジェクトを立ち上げるなどの活動や、イラク湾岸戦争での劣化ウラン弾使用による核被害の実態調査、福島原発事故にかかわる様々な活動、さらに国連の核兵器禁止条約採択のための活動など、核絶対否定の活動を続けている。『核兵器廃絶をめざすヒロシマの会』共同代表、世界核被害者フォーラム事務局長などを務めている。50歳から癌を患い、闘病しながらの活動である。
「水棹をのむ背の如く―解説に替えて」(森瀧春子)より
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まなこひとつ 失(し)いしかなしみ 深かれど ひとすじのみち みえ
ざらめやわ
一九四五年八月六日に広島で被爆し、右眼の光を失った森瀧市郎が、二年後の一九四七年に詠んだ短歌である。
被爆直後、残った左の目を激痛に耐えながらこじ開けて見た地獄の状況は、生涯を通じて向き合わざるを得ないものだった。郷里に近い村にあった眼科病院ででの療養の間、原爆被爆の体験が意味するもの、自分の生き方、人類が生きていくべき方向についての思索を通して、見えてきた一筋への思いを詠んだものである。哲学の徒として考え抜いた結論が、科学の発展の頂点で作り出された核文明は「力の文明」であり、それを否定して「愛の文明」の方向に向かわなければ人類の存在が危うくなるというものだった。
(筆者注記・残った左眼の視力が原爆性白内障によって極端に落ち、八十五歳になった頃にはほとんど手探りの状態になり、残された眼の光さえ失う危険性があり、主治医の決断により白内障の手術を受けた経緯が記されているが省略)
「まなこ一つ」によって長年にわたる反核・反戦運動、被爆者救援運動に携わることができたのであるが、白内障手術を受けて初めて自宅近くの海岸を一緒に散歩したとき「宮島や瀬戸の島々があんなに美しいとは! 色彩があったんだな」と弾んだ声を上げたときのことは忘れがたい。
もう一つ忘れ得ぬことがある。…父に教わってちかくの本川の満ち引きの観察をした折り…浅い川底の砂に映る水紋の美しさに見とれているうち小さな赤ちゃんの白い頭蓋骨を見つけた。私は子ども心にそれが何を意味するかが分かり川から飛び上がって走り帰り父に渡した。父は無言で幼子の遺骨を捧げ持ち拝んでいたが、突然大声を上げて泣き伏した。父の号泣する同じ姿を、私は八月六日の朝何度か見た記憶がある。原爆投下によってもたらされた未曾有の非人間的悲惨な体験に突き動かされて哲学者としての全存在を「人類は生きねばならぬ」と九十三年の生涯を傾けたと思う所以である。
重き荷を捨て得ぬはわれのさだめなり 原爆の日を生きてのこりし
(1968)
いまはただ生きの日つくし反核の みちひとすじに生くべかりけり
(1975)
一九四八年に始めた、原爆によって家族関係を破壊された原爆孤児救援のための「精神養子運動」は、父・森瀧市郎の行動実践へのスタートでありまた、一九五五年の第一回原水爆禁止世界大会開始、広島県被団協結成、一九五六年の日本被団協結成などにつながって行くものであった。森瀧が草稿を書いた被団協結成大会宣言「世界への挨拶」では、
「世界に訴うべきは訴え、国家に求むべきは求め、自ら立ち上がり、たがいに相救う道を講ずるためでありました。かくて私たちは自らを救うとともに、私たちの体験をとおして人類の危機を救おうという決意を誓い合ったのであります。」
無念の原爆死没者、人間関係を破壊された原爆孤児・原爆孤老、原爆障害者、放射能障害者予備軍への国家補償なくして核兵器禁止は実現はできないと、多くの被爆者とともに戦い続けた。その人たちの多くはすでに「遅れた被爆死」により亡くなっている。(略 前回記した1994年の『核絶対否定への歩み』〈原水禁広島協議会発行〉、渓水社刊)について記述している)
(同書の出版の動機について) 森瀧は、
「いまの私は、いつ、どこでも『核絶対否定』をためらいなく口にする。しかし、かつては核の『平和利用』にバラ色の未来を望んだ。私の反核の意識が、どんな軌跡をたどって今のようになってきたか、日記などをふりかえってみたい」
と述べ赤裸々に自己の原子力平和利用との関わりに向き合い総括している。その追求の中で、一九五四年頃から原子力平和利用についてのプロパガンダが日米の権力、資本により意図的に組織され、一九六〇年代後半から原発が建設されはじめ、あっという間に原発大国日本が作りあげられていったのかを明らかにしている。
◇ ◇ ◇
(筆者注記・同書の第一章「核絶対否定への歩み」の中に〈被団協の宣言〉の項があるが、森瀧市郎は次のように記している。「米国から広島に原子力発電所の贈り物という話が出た一九五五年〈昭和三十年〉は、あの感動的な第一回原水禁世界大会が広島で開催された年である。この大会では広島・長崎の原爆体験が初めて広く伝わり、原水爆禁止と被爆者救済の運動の出発点となったが、原子力の『平和利用』も『原発』も話には出なかった。…『原子力平和利用博覧会』が広島で開催された一九五六年は、第二回原水禁世界大会が長崎で開かれた年である。さすがにこの大会では『平和利用の分科会』が設けられた。しかしそこには『平和利用』否定の意味は微塵もなく…『平和利用』という言葉はこのように日本の原水禁運動の初期から突きつけられたが『民主・自主・公開』という用心のカベが設けられただけで、一般には『平和利用』のバラ色の未来が待望されていたのである。/原子力の『軍事利用』すなわち原爆であれだけ悲惨な体験をした私たち広島・長崎の被爆生存者さえも、あれほど恐るべき力が、もし平和的に利用されるとしたら、どんなにすばらしい未来が開かれることだろうかと、いまから思えば穴に入りたいほど恥ずかしい空想を抱いていたのである。/長崎での第二回世界大会の中で結成された日本被団協の結成大会宣言には…その結びに近いところで『私たちは今日ここで声を合せて高らかに全世界に訴えます。人類は私たちの犠牲と苦難をまたふたたび繰り返してはなりません。破壊と死滅の方向に行くおそれのある原子力を決定的に人類の幸福と繁栄の方向に向わせるということこそが、私たちの生きる限りの唯一の願いであります。』と。しかも草案を書いたのは私自身であったのである。」 森瀧さんは自らの原子力平和利用との関わりについて、このように記したが、一九五五年一月末の日記をたどり、原発を広島にという米国のイェーツ下院議員の提案に対し「うかつに受け入れてはならぬ」と中国新聞の記者の問いに答えたこと、原水禁広島協議会常任理事会でこの問題についての声明書を出し、「原子炉は原爆製造用に転化される懸念がある」「原子炉から生ずる放射性物質の人体に与える影響・治療面に重大な懸念がある」…などの問題点を提起していることを考えると、森瀧さんが「平和利用」について強い問題意識を持っていたことを、筆者は推測する。)
◇ ◇ ◇
(森瀧春子さんの記述をつづける)
二〇一一年三月十一日の東北大震災・福島第一原発事故が突きつけた「核の平和利用」神話の崩壊により、原子力がどんな形で利用されても人類の生存を脅かすという冷厳な事実がより明らかになり、四十年近く前から森瀧が訴えて来た「核と人類は共存できない」という核絶対否定の意味が社会に受け止められるようになった。(略)
一九六九年から原水禁大会で重要な課題として取り上げられ始めた「平和利用問題」は一九七一年に運動方針として「安全の保証されない原子力発電所、核燃料再処理工場設置反対」を掲げた。
一九七一年初頭には、
訴えの旅に立ちなん ことしこそ 老いの身いとう いとまあらめや
あやまてる みちを競いて 進みゆく 核大国の ゆくて止めむ
と詠み、世界一周の反核の旅に出たが、その旅の目的の一つは、原子力の平和利用について憂慮し真剣に取り組み始めている欧米の心ある学者たちを訪ねて意見を聞いたり資料を集めことだった。それはその翌年一九七二年の原水禁大会に反映され、「最大の環境破壊、放射能公害を起す原発・再処理工場建設に反対しよう!」というスローガンが掲げられた。…さらに一九七五年に南太平洋フィジーで開かれた「非核太平洋会議」で、オーストラリアのウラン鉱山の被害を訴えた先住民アボリジニ―の若き女性の訴えにより、核の被害がウラン鉱山でウランを地中から取り出す段階から引き起こされていたということに大きな衝撃を受けた。
運動として反核運動の中心に「核絶対否定」が据えられたのは一九七五年の原水禁世界大会においてであった。基調演説において森瀧は、
「(略)私たちは今日まで核の軍事利用を絶対に否定してきましたが、いまや核の平和利用と呼ばれる核分裂エネルギーの利用をも否定しなければならぬ核時代に突入したのであります。…結局、核と人類は共存できないのであります。共存できないということは、人類が核を否定するか、核が人類を否定するかよりほかないのであります。我々は、あくまで核を否定して生き延びなければなりません。」と明確に提起したのであった。(筆者注記 この基調演説の部分全容については、本稿の前回に記した。)
絶対に否(いな)みてやまじ 格といえば 平和利用のあだし名あれど
抵抗の 心ゆるめじ 誤てる 核権力の行く手みつめて
と、その後、伊方原発建設差し止め訴訟や青森六ケ所村核燃料再処理工場建設反対、高速増殖炉もんじゅ運転反対などの運動に関わり続けた。しかしその後も、日本や世界の反核運動総体は福島原発大事故が起こされるまで、「核の平和利用神話」の呪縛に縛られてきたという他ない。
本書は、原発問題にかぎらず、森瀧の被爆後の半世紀に亙る反核・反戦運動、被爆者救援運動の中で、原水禁運動の分裂、さらに統一合意をめぐる紛糾、原爆被害者援護法を求める被爆者運動の中で国との長く執拗な戦いなどに、揉まれ苦悩する姿や、絶望に時を費やす暇もない戦いの姿も伝えるものである。
米ソの核実験開発競争の激しさに危機感を持ち、大学に辞表を出して決意の長期座り込み行動を起こしたとき、小さな少女が問いかけた。「座っとっちゃちぁ 止められはすまいでぇ」と。
十二日間、慰霊碑前に座り込みながら思索し、少女の問いに出した答えは、
精神的原子の連鎖反応が 物質的原子の連鎖反応に かたねばならぬ
であった。死の床で書き最後の遺稿となった被団協通信の年頭の挨拶文「いのちとうとし」にも「核廃絶の可能性は私たち生きんとする人民大衆の連帯にかかっています」」と述べている。
反核の友は頼もし 今日の日も慰霊碑前に ここだあつまる
(注 「ここだ」はこんなにも沢山の意) (1977)
核のなき未来のために生きの日は ただにささげて 悔いを残さじ
(1980)
と休む暇もなくただ愚直とも言えるほどの信念から生き抜いたが、核のあらゆる段階で引き起こされる被害者の問題を解決するためには世界の核被害者の連帯が必要だと一九八七年にニューヨークで開催した核被害者世界大会が八十六歳、最後の海外渡航となった。
ヒロシマの声 あげざわめらわ 反核の炎をもちて 世を包むまで
いくばくの わがいのちなる生くるまに 核なき世界のもと 拓きたし
その後も死の前年まで、核実験反対の座り込み行動や六ヶ所村の核燃料再処理工場建設反対集会に出かけたりして頑張ったが、力尽きて最後は多くの被爆者と同様に「遅れた死」が胃癌によってもたらされた。一九九四年一月二十五日、九十二歳であった。
いま生くる われのいのちは いくばくの 人のささえに育まれたる
(以下省略 筆者)
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森瀧春子さんの、「水棹のむ背の如く―解説に替えて」は、さらに続き父・市郎さんとともに、そしてその志をわがものとして、いまも「核と人類は共存できない」核絶対否定の闘いを、容易ではない癌との闘病を長く続けながら、国内外で続けている春子さんの貴重な記録を省略することは、筆者にとって無念極まりないと思っている。このコラムを続けようと考えている。 (つづく)
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