2018年09月26日13時25分掲載
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コラム
新潮45への抗議の波と休刊 書店はどうなっているのか?
この夏、新潮45に掲載された自民党議員の文章があまりにも人権を軽んじて酷いものだ、と大きな非難が飛んだ。ところが2か月後にそれらの批判を浴びたのに、なお開き直りで一層酷い文章を新潮45が掲載したということで、抗議の規模が大きくなり、とうとう新潮社は新潮45を休刊すると昨日、発表した。インターネットの世界でも様々な声が出ていた。新潮社の本を書店から全部撤去すると言う店も記事になり始めていた。筆者は新潮45は酷いとしても、新潮社の本を全部書店から撤去する、と決めた書店も出ていることが残念でもあった。世界の名作を多数擁する新潮文庫まで書店から消えてなくなるといよいよ廉価でいい本に人々が出会う機会がまた減ることになるからだ。
一方、インターネットの中では新潮社だけが過去にいい本を出していたわけではない、例えば国書刊行会だって様々ないい本を出しているのに全然それらを棚に置いていない店はたくさんある、と言う意見を目にした。たしかにその人の指摘するように国書刊行会はアルフレッド・ジャリの「フォストロール博士言行録」とか、ヴェネディクト・エロフェーエフの「酔どれ列車、モスクワ発ペトゥシキ行」とか、イタロ・カルヴィーノの「不在の騎士」「最後に鴉がやってくる」など文学ファンにとっては大切な出版社だろう。それなのに町の多くの書店で国書刊行会の本をあまり見かけなくなった気がする。そういう出版社は国書刊行会以外にも多数にのぼるだろう。書店がどの本を選ぶかは自由だが、すでにそのセレクションで足切りされて棚に並ぶことができない本や出版社はたくさんあるのだ。
酷い文章を老舗の優れた出版社が世に出しまったことで書店に何を置くか、ということまで議論の射程に入ってきた。実際のところ、この頃、多くの書店が過去とはかなり置いている本の傾向が変わってきており、歴史修正主義の本が増えているのを感じる。その一方で社会学や哲学、経済学、政治学などの古典に類する名著はますます減ってきていると思う。このことは新潮45の今回の事件と無関係だろうか。出版社=書店=読者そして、経済と可処分所得、および余暇の時間の増減は密接に絡み合っている。本の売り上げの減少、とくにハードカバーの本の売り上げの減少は経済と無縁ではない。インターネットなどの通信が庶民の日々の支出の中で重みを増している事情もあるだろうが、それだけではあるまい。今後さらに労働者が低賃金になり、労働時間が増えるなら、本を読む時間も、本を買う資金もますます減ってしまうだろう。出版社だけの責任に帰すのは簡単だが、出版社をそこまでに追いつめている総合的な状況を少しでも変えていかなくては出版業界の未来は暗い、と言わざるを得ない。出版社のあり方だけでなく、書店のあり方や労働者がなかなか本が買えない今日の経済のあり方も議論されるべきだと思う。
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