2018年10月07日14時34分掲載
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政治
柴山昌彦くん、愚かなキミには文科大臣は務まらない。 澤藤統一郎(さわふじとういちろう):弁護士
第4次安倍内閣への呼称が定まらない。
「もり・かけ反省拒否宣言内閣」「論功行賞内閣」「旧友復活内閣」「旧悪再生内閣」「在庫一掃内閣」「閉店セール内閣」「全員右投げ右打ち野球内閣」「右側エンジン全開内閣」「無適材不適所内閣」「レームダック内閣」…。いずれも一面の真実を衝いて甲乙付けがたい。
呼称は定まらないが、世評の低さは定まった。「信頼挽回内閣」にも、「人気回復内閣」にもなり得ない。提灯持ちメデイアのご祝儀記事も力がない。なにせ安倍商店が国民の前に並べた商品は、まことに魅力に乏しいのだ。早くも欠陥商品が見つかってもいる。
文科大臣就任の柴山昌彦なる人物。アベの候補者公募に応募したのが政治家稼業の始まりという、アベチルドレンの典型だという。宮本岳志から、「また愚かな人が文部科学大臣になった。教育勅語を研究もせずに教育勅語を語るな!」と、みごとな叱責を受けて、これはその評価が定まった。
ほかならぬ文部科学大臣である。「愚かな人」が就くべきポストではない。「愚かな人」とは、日本国憲法の理念を知らぬ人、弁えぬ人のこと。アベ晋三も柴山昌彦もこの範疇。日本国憲法下の教育行政担当官である以上は教育基本法をこそ熱く語るべきであって、大日本帝国憲法とともにあった教育勅語を肯定的に語ってはならない。ましてや、文部科学大臣が、教育勅語を研究もせずに「教育勅語を使える」などと言ってならないのは理の当然。
「普遍性を持っている部分」を取り出すとすれば、ヒトラーの演説からも、スターリンからも、ネロからも、東条英樹からも、アルカポネや石川五右衛門からだって、「道徳的教訓」を得ることができる。それをなぜ、ことごとしく教育勅語を持ち出すのか。意図は見え々えではないか。
柴山は大臣就任記者会見でどう語ったか。この大臣の「愚かな人」ぶりを引き出した質問は、朝日や共同通信や東京新聞ではなく、NHKの記者によるものである。
NHK:大臣はご自身のTwitterで今年の8月17日に、「私は戦後教育や憲法のあり方がバランスを欠いていたと感じています。」とツイートされていますが、戦後教育や憲法や在り方がどのようにバランスを欠いていたと感じていらっしゃるんでしょうか。
柴山:はい。その私のツイートの趣旨は、やはり教育というのは当然のことながら私たちの権利とともに、義務や規律ということについても教えていかなければいけないと、これは当然のことだと思っております。ただ、戦前、その義務とか規律が過度に強調されたことへの、これもまた大きな反動として、個人の自由とか、あるいは権利ということに重きを置いた教育、あるいは個人の自由を非常に最大の核とする日本国憲法が制定をされたということだと思っております。
そういう中で、憲法についてはわれわれ憲法尊重擁護義務がある公務員ですから、ちょっとここではその在り方について言及をすることは避けたいというふうに思うんですけれども、少なくとも教育においては権利や義務、あるいは規律ということを、しっかりバランスを良く教えていく、こういったことがこれから求められるのではないかと、そういう趣旨でツイートしました。
NHK:関連してなんですけども、教育勅語について、過去の文科大臣は中身は至極まっとうなことが書かれているといった発言をされているわけですけども、大臣も同様のお考えなんでしょうか。
柴山:はい。教育勅語については、それが現代風に解釈をされたり、あるいはアレンジをした形で、今の例えば道徳等に使うことができる分野というのが、私は十分にあるという意味では、普遍性を持っている部分が見て取れるんではないかというふうに思います。
NHK:それはどの辺が十分今も使えるというふうに考えてらっしゃるんでしょうか。
柴山:やはり同胞を大切にするですとか、あるいは国際的な協調を重んじるですとか、そういった基本的な記載内容について、これを現代的にアレンジをして教えていこうということも検討する動きがあるというふうにも聞いておりますけれども、そういったことは検討に値するのかなというふうにも考えております。
このNHK記者の質問は立派なものだ。表面的な回答に満足せず、的確な質問を重ねて、この大臣の重要な内面をえぐり出した。「愚かな人」ぶりをさらけ出させたと言ってもよい。
柴山の教育勅語を語る姿勢における本質的な問題点は措くとして、「愚かな人が、教育勅語を研究もせずに教育勅語を語っている」ことだけに触れておきたい。
柴山が、普遍性ゆえに今の道徳(教育)にも使うことができるという、教育勅語の個所として挙げたのは、「同胞を大切にする」と「国際的な協調を重んじる」の2個所である。
おそらく、柴山は教育勅語を読みこんだことがない。勅語成立の背景事情もそれがどのように使われてきたかに関心をもったこともなかろう。ただ、アベが右翼である以上は、自分も右翼的でなければならないと思い込んでいるに違いない。右翼的であるための証しとして、教育勅語を肯定的に語らねばならないと考えたのだろう。そう考えざるを得ない。
まず、「同胞を大切にする」なんて、教育勅語には出てこない。そもそも、「同胞」という言葉がない。柴山がこうしゃべった根拠の可能性は二つ。
一つは、「爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ」の「兄弟」を同胞と間違えて記憶していたものと考えられる。いうまでもなく、「同胞」とは、訓読みすれば「はらから」、兄弟姉妹のこと。柴山が、うろ覚えで、「教育勅語には同胞(兄弟)を大切にせよ」という文句があったと間違えていたとしても無学の者にはありがちなことで、「文科大臣たる者が」という肩書を外せば、恥ずかしいというほどのことではない。「ミゾユウ」や「でんでん」「せご」などとは明らかに次元が異なる少々の間違い。
しかし、「兄弟ニ友」を、「同胞ニ友」と読み替えたところで、「兄弟仲良くせよ」でしかなく、「現在なお道徳等に使うことができる普遍性をもった徳目」として抜き出して論じるほどのものではない。
もう一つの可能性は、柴山の頭がナショナリズムに凝り固まっていて、「同胞」を「原義から転じて同じ国民や民族を指す」語彙として使っていること。「教育勅語には民族主義礼賛の言葉がどこかにあっただろう」「同胞すなわち日本民族を、お互い大切にしなさい」という徳目があったに違いない。愚かにも、そのように考えたのではないか。いずれにせよ、いい加減で不正確も甚だしい。戦前なら、「不忠」「不敬」と指弾されたところ。
柴山が言った「今の道徳(教育)にも使うことができる2番目の徳目」は、「国際的な協調を重んじる」だが、これは当てずっぽう。「愚かな人」が無知をさらけ出したと言うしかない。教育勅語にそんな言葉はない。そもそも、そんな理念を国民に教育しようという発想がなかった。
柴山が「国際的な協調を重んじる」ことを大切な徳目として道徳教育で教えたいというのなら、教育勅語を持ち出すことはできない。どんなにアレンジしたところで、教育勅語から導かれるものは「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」に収斂する戦争でしかない。
もちろん、国際協調主義は現行憲法の重要な原則である。国際協調主義を教えるのなら、教育勅語の出る幕はない。現行憲法をそのまま教えればよいのだ。たとえば、次の前文。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
あるいは9条。
第9条1項 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
そもそも、教育基本法には教育の目的と目標が書き込まれている。その意味でも教育勅語なんぞの出る幕はない。1947年教育基本法は、崇高な教育の精神を語っていた。第1次アベ内閣が2006年にこれに傷をつけ、そのときから私はアベを民主主義の敵、人権の敵、平和の敵と確信して揺るがない。もっとも、アベに傷つけられた教育基本法だが、教育勅語に比較すれば、格段に立派な内容となっている。引用しておこう。
(教育の目的)
第1条 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
(教育の目標)
第2条 教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
一 幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。
二 個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。
三 正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。
四 生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。
五 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。
柴山くん、まずは日本国憲法の理念と教育基本法をきちんと学習したまえ。何年か先に、学が成って憲法・教基法の精神を会得するまで、キミには文科大臣は無理だ。務まらない。さらに、「愚かな人」ぶりをさらけ出して恥の上塗りを重ねるよりは、潔く職を辞するが身のためだと思う。キミの身のためであるだけでなく、それが日本国民のためなのだ。お分かりいたたけないだろうか。
(2018年10月6日)
澤藤統一郎(さわふじとういちろう):弁護士
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2018.10.6より許可を得て転載
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