2018年10月31日12時32分掲載  無料記事
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みる・よむ・きく

中村元、三枝充悳著『バウッダ』を読む 根本行雄

 前回、馬場紀寿著『初期仏教 ブッダの思想をたどる』(岩波新書)を紹介しながら論評したことを受けて、今回は、中村元、三枝充悳著『バウッダ・仏教』(小学館)を取り上げたい。馬場の説く「初期仏教」と、中村たちの説く「ゴータマ・ブッダの思想」を比較しながら論評したいと思う。 
 
 前回、馬場紀寿著『初期仏教 ブッダの思想をたどる』を論評しながら、読者はネモトが次のように述べたことを覚えているだろうか。 
 
「ネモトと馬場とでは大きな相違点があるのではないかと読者の多くは思われるだろう。ところが、馬場が説明している「初期仏教」の思想と、ネモトが理解している「ゴータマ・ブッダの思想」とは、ほとんど、相違点がないのだ。」と。 
 
馬場は、『初期仏教 ブッダの思想をたどる』において、次のように述べている。 
 
「ブッダが悟りに達した過程を説く伝承を『成仏伝承』と呼んでおこう。各部派の『成仏伝承』が完全に残っているわけではないが、伝存する仏典の多くでは『四聖諦』『縁起』あるいは『五蘊・六処』の思想を認識することにより成仏したと伝承されている。」96ページ 
 
「ブッダは四聖諦を認識することにより悟ったとするのは、仏典で最も多い説明である。」97ページ 
 
 つまり、馬場は、その著書のなかで、『初期仏教』である「ゴータマ・ブッダの思想」とは、「ブッダは四聖諦を認識することにより悟った」と要約しているのである。誤解を恐れずに述べれば、『悟り』とは四聖諦であり、八聖道を実践する生活を営むことである。 
 
 四聖諦とは、苦諦、集諦、滅諦、道諦の四つである。苦諦は、すべては苦であると説く。集諦は。苦しみの成り立ちを解明する。滅諦は、苦しみをどのように超克を説く。道諦とは、苦しみの終滅させる八つの実践方法である。そのような生活をすることが「悟り」である。 
 
「八聖道を実践することに、出家生活の目的はある」206ページ 
 
「仏教が説く『高貴な者』とは、『四聖諦を悟り、八聖道を実践する者』なのである。」209ページ 
 
 では、中村元や三枝充悳は、「ゴータマ・ブッダの思想」をどのようにとらえているのだろうか。 
 
 仏教の創始者はゴータマ・ブッダである。 
 
「ゴータマはその姓であり、名はシッダッタ。そのゴータマ・シッダッタがブッダとなり、この結果ゴータマ・ブッダという名称が、通常の呼び名とされ」ている。 
 
 原始仏教とは、ゴータマ・ブッダの在世時の仏教のことである。仏教は、キリスト教、イスラム教とともに「世界三大宗教」のひとつとされているが、特に原始仏教には「宗教」の要素はほとんどない。ゴータマ・ブッダは「法」を説くのであって、教義を説くのではないからである。 
 
 ブッダとは、「覚った人」とか、「目覚めた人」ということを意味している。 
 
「ゴータマさまは種々のしかたで法を明らかにされました。」『スッタニパータ』142 
 
「原始仏教では、人間がいかなる時、いかなる場所においても、『遵守すべき永遠の理法』があると考え、それを『法』(ダルマ)と呼んだ。」『バウッダ』21ページ 
 
「原始仏教においては、『法』の権威が最高のものであり、『仏』の上に位していた。たとえば、『縁起の理法』について、決まり文句として、次のようにいう。−−この縁起の理法は『永遠の真理』である。『如来が世に出ても、あるいはいまだ世に出なくとても、この理は定まったものである。』如来は、ただこの理法を覚って『覚り(等正覚)』を実践し、衆生のために宣説し、開示しただけにすぎない、という。」『バウッダ』23ページ 
 
ゴータマ・ブッダは、いつでも、どこでも、私たちの生きている現実を直視し、絶えず変化している表層ではなく、私たちの生の根源のありようを直視し、思索し、そこにある「永遠の真理」を探り出し、それを「法」と呼び、それらを組み立てている。それを後世の人びとは、「四諦八正道」と呼んでいる。 
 
「さとれる者(=仏)と真理のことわり(=法)と聖者の集い(=僧)とに帰依する人は、正しい智慧をもって、四つの尊い真理を見る。−−すなわち、(1)苦しみと、(2)苦しみの成り立ちと、(3)苦しみの超克と、(4)苦しみの終滅(おわり)におもむく八つの尊い道(八聖道)とを(見る)。これは安らかなよりどころである。これは最上のよりどころである。このよりどころにたよってあらゆる苦悩から免れる。」『ブッダの真理のことば』190-192節 
 
「四つの尊い真理」とは「四諦」のことであり、「苦しみの終滅(おわり)におもむく八つの尊い道」とは「八正道」のことである。「四諦八正道」はゴータマ・ブッダの思想をみごとに要約しているものである。 
 
 「四諦とは、苦諦(くたい)・集諦(じったい)・滅諦(めったい)・道諦(どうたい)であり、略して、苦集滅道(くじゅうめつどう)ともいう。」『バウッダ』141ページ 
 
 「苦」とは何か。「四苦八苦」ということばがある。まず「生老病死」の4つの苦があり、さらに、「愛別離苦(愛する者と必ず別れなければならない苦)、怨憎会苦(怨み憎むものと、どうしても会わなければならない苦)、求不得苦(求めるものが、どうしても得られない苦)、五蘊盛苦(総括して、一切は五つの集まりであり、そこに充満している苦)」の四つの苦があり、合わせて、「四苦八苦」と呼ばれている。 
 
 「五蘊」についてだけは、簡略に説明しておこう。 
 
 「五蘊」とは五つの集まりという意味であり、「色受想行識」の5つを表している。『バウッダ』には次のように説明されている。 
 
 「色」感覚的・物質的なもの、「いろ・かたち」のあるもの。 
 
 「受」感じて、なんらかの印象を受け入れるはたらき 
 
 「想」表象作用、すなわちイメージを構成するはたらき 
 
 「行」潜勢的な形成力で、こころの能動的なはたらき 
 
 「識」対象をそれぞれ区別して、認識し、判断する作用 
 
 また、「眼、耳、鼻、舌、身、意」(げん・に・び・ぜつ・しん・い)を「六入」と呼び、それは「色、声、香、味、触、法」(しき・しょう・こう・み・そく・ほう)という六つの対象と対応しており、「六境」と呼んでいます。 
 
 私たちが生きているそのありようそのものが「苦」である。それが「四苦八苦」であり、ゴータマ・ブッダは「一切皆苦」(すべては苦である)と説く。 
 
 「八正道」とは、「正見」(正しい見解。真理の知識)、「正思」(正しい思い。煩悩から離れる)、正語(正しいことば。虚言、そしることば、あらあらしいことば、戯言、という四つを断つ)、正業(正しい行いとその積み重ね。殺生、盗み、邪淫を断つ)、正命(正しい生活。法にかなった衣食住のありかた)、正精進(正しい努力、修養、精励)、正念(正しい気づかい。注意、思慮)、正定(正しい精神統一。)を表している。「八正道」は出家修行者の生き方、修行のしかたを具体的に表したものであり、「悟り」そのもののありようを示しているものでもある。「正見」とは「苦諦」と「集諦」と「滅諦」を知り、理解しているということを意味している。ゆえに、八正道を実践する生活とは修行であるとともに、「悟り」でもある。「悟り」とは高い山の頂上をめざして登っていき、その頂点に立つような、点的な、一時的なものではなく、一筋の道を坦々と歩き続けるような、線的な、恒常的なものである。だから、ゴータマ・ブッダの「遊行」のありようそのものが「悟り」そのものであると言えるのである。 
 
 ゴータマ・ブッダが説く「法(ダルマ)」とは、「永久不変の法」であり、私たち人間の本性を明らかにしたものであるから、場所によって異なり、時代と共にその内容が変化しているものではない。 
 
 法律とは、私たちの暮しのなかで働いている社会規範である。仏教では、「五戒」と呼ばれているものがある。 
 
 五戒とは「不殺生戒」(殺してはならない)、「不ちゅう盗戒」(盗みをしない。与えられないものは、とらない。)、「不邪淫戒」(他人の妻とみだらな関係をもたない)、「不妄語戒」(いつわりを語らない)、「不飲酒戒」(酒類は飲まない)のことである。 
 
「生きものを殺し、虚言(いつわり)を語り、世間において与えれていないものを取り、他人の妻を犯し、穀酒・果実酒に耽溺(ふけりおぼれ)する人は、この世において自分の根本(ねもと)を掘りくずす人である。」『真理のことば』246-247節 
 
 「仏教修行者たちの『つどい』である『サンガ』という語は、もとは『集まり』または『団体』を意味し」『バウッダ』24ページ ていました。そして、「アショーカ王のころになると、『サンガ』という語は仏教教団を意味」『バウッダ』25 するようになりました。サンガは、出家者は男性の「ビック」と女性の「ビックニー」に、在家の信者は男性の「ウパーサカ」と女性の「ウパーシカー」の4種類からなっている。 
 
 五戒のうち、不飲酒戒は在家の信者には適用されませんでした。ですから、「不殺生戒」、「不ちゅう盗戒」、「不妄語戒」の4つ、「四戒」となった。そうなると、それは「慣習」として、古代インドだけに通用するものではなく、一般的な成文法である実定法に内在するものとなっている。また、これらの戒は「自然法」と共通する、4つの特色を備えている。 
 
 特色 その1 は、普遍性である。地理的な制約を超えて、国や地域や場所などに関係なく妥当する。 
 
 特色 その2 は、不変性である。時代や立場などによって変更されることはない。 
 
 特色 その3 は、合理性です。理性をもつ者であるならば、だれでもそれを認識し理解することができる。 
 
 特色 その4 は、非恣意性です。さまざまな事情から変化することがあっても、立法者が恣意的に変えることができないものであり、人間の恣意に基づくものではない。 
 
 ホセ・ヨンパルト著『法哲学案内』(成文堂)は、形而学上の自然法(論)、法学上の自然法(論)、倫理学上の自然法(論)、神学上の自然法(論)と、自然法(論)を4つに分類している。ネモトは5つ目の自然法として、ゴータマ・ブッダの説く「法(ダルマ)」を加えることができるだろうと考えている。 
 
 ゴータマ・ブッダは「一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。」『ブッダのことば(スッタニパータ)』(37頁)と、無量の慈しみの心を実践するようにと説かれた。ゴータマ・ブッダが説く「サンガ」とは、刑罰のない社会であり、刑罰を必要としない社会である。ゴータマ・ブッダは近代憲法の基本原則を超えて、私たちに刑罰を必要としない社会を実現すべきであると教えてくれている。 
 
 ネモトにとっては、「ゴータマ・ブッダの思想」とは酌めども尽きない源泉である。何度も、何度も、繰り返し、読みながら、学ぶこと、気づかされることが多い。孫悟空のように、「ゴータマ・ブッダの手のひら」の上を動き回っているだけのような感想も覚えている。 
 
 ゴータマ・ブッダの思想を要約すれば、四諦八正道となる。ネモトが「ゴータマ・ブッダの思想」を研究しているのは、八正道をすべて理解することができないということ、わからないところがあるということである。それは古代のインドの人びとの生活と思想に由来しているものであることは明らかである。「ゴータマ・ブッダの思想」もまた、その時代とその地域に根差した思想である。時代と地域の制約を受けているものである。当然変異として登場したものでない。 
 
 「八正道」とは、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定である。正見、正思、正語、正業、正命、正精進までは、容易に理解することができる。しかし、正念、正定の区別とつながりがよくわからない。それがネモトにとっての積年の課題である。 
 
 現在のネモトの理解としては、正念、正定というものは、古代インド人たちの「悟り」の生活そのものであり、当時のインド思想につながるものであり、古代インド独特のものである。だから、わかりにくい。現代のわたしたちの視点から理解すれば、それは行住座臥の瞑想、二十四時間の瞑想である。それが現在のネモトの理解である。 
 
 もう一つの、ネモトにとっての積年の課題は、原始仏教の経典に出てくる比喩の豊かさである。歴史的に実在した「ゴータマ・ブッダ」という人物の経歴などを考えれば、その豊かさは個人によるものではなく、ブッダ入滅後の主家修行者たちの集団による長期にわたる付加であると思わざるをえない。それは紫式部の『源氏物語』が同世代人、後世の読者たちによって改変と付加をされているのに似ている。それが現在のネモトの理解である。 


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