2018年12月10日21時18分掲載  無料記事
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外国人労働者

「難民鎖国」から「移民開国」へ ‶人間不在〟を乗り越える新しい社会は可能か? 

  頑なに「難民鎖国」を貫いてきた日本政府が、入管法を強引に改正して「移民開国」に踏み出した。受け入れ態勢が整わないままの見切り発車には多くの問題点が指摘され、とりわけ外国人を単なる低賃金労働力として使い捨てにする人権無視が懸念されている。だが人権への日本の鈍感さは、難民問題で繰り返されてきたことであり、それが新たな形で展開されるおそれが強い。これまでの難民政策を振り返りながら、国際的な人道基準にかなう外国人受け入れをめざすために何が求められているのかを考えてみたい。(永井浩) 
 
▽「単一民族国家」神話によるボートピープル拒否 
 日本が先進国のなかで突出して難民に冷たい国であることは、2015年に内戦で急増したシリア難民への対応でもあらためて示された。ドイツをはじめとするEU(欧州連合)諸国は2年間で16万人、米国も1年間で1万人の難民受け入れを約束したが、安倍首相は資金的な援助の表明にとどまり、難民の受け入れにはふれなかった。難民受け入れは国際的な人道責務という認識はないようだったが、それはいまに始まったことではない。 
 
 難民に対する日本の国際的な責任が最初に大きな問題となったのは、ベトナム戦争後の1970年代後半に発生した大量の「ボートピープル」だった。1975年のサイゴン陥落を受けて、翌76年に北ベトナムの共産党政権主導の南北統一が達成されると、新体制を嫌う南の人びとが次つぎに漁船などの小さな船で国外脱出をはかり始めたのである。多くは東南アジアのタイ、マレーシア、フィリピン、インドネシアの各地、さらにはオーストラリアにまで漂着し、その数は数十万に達した。彼らの証言から、多数の船が沈没したり、海上で海賊に襲われるなどの悲劇が明らかにされた。 
 
 さらにベトナム戦争後のカンボジア、ラオスの混乱が多数のインドシナ難民を生み出し、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると、86年までに100万人をこえた。 
 
 国際社会はインドシナ難民救済に立ち上がり、UNHCRが中心となって周辺諸国のキャンプに収容されていた難民の先進国への定住事業が進められた。米国の83万人を筆頭に、オーストラリア、カナダ、フランスがそれぞれ10万人前後を受け入れた。だが日本は、難民受け入れを渋った。最大の理由は、日本は単一民族国家であるというものだった。 
 
 日本政府は、①日本には従来、難民や亡命者の取り扱いを規定した法律がない②かりにベトナム難民の受け入れを認めれば、他の東アジアや東南アジアの強権国家からも人びとが殺到し、ただでさえ人口の多い日本が大変な問題をかかえることになりかねない③日本は古来、単一民族・単一文化の特殊な国であって、たとえ難民を受け入れても彼らは社会に融け込めずかえって不幸になるかもしれない──などと主張した。 
 
 政府だけでなく、世論もベトナム難民受け入れに消極的だった。進歩的と称される人たちからは、難民がわずかばかりのドルや金の延べ板をもっているのに目をつけ、「ほれ見ろ、奴らは旧政権時代の金持ちだ。支配階級だ。以前人民の敵だったのだから、旧悪暴露をおそれて逃げてきたんだ」という声が聞こえた。保守的な人たちは逆に、難民の伝える〝残酷物語〟の尻馬に乗り、「だからいわんこっちゃない。もともと共産主義とは非人間的なものなのだ」と、難民を反共政策に利用するだけで、だから反共国家の日本は彼らを受け入れるべきなのだとは言わない。 
 
 日本政府は米国のベトナム侵略戦争を支持し、その見返りの特需として日本の企業は米軍がベトナムで投下するナパーム弾の原料から兵士の食べるインスタントラーメンにいたるまで、戦争を支える多くの兵器と装備を製造した。ベトナム特需は東京五輪後の不況乗り切りに貢献し、さらに日本は米国に次ぐ世界第二位の経済大国へと成長していった。日本はこの戦争でさんざん儲けながら、戦争が生み出した難民の受け入れにはそっぽを向こうとしたのである。 
 
 そのような自国の政府と世論に対して、産経新聞のサイゴン特派員をつとめた近藤紘一は強い怒りを込めた文章を書いた。彼は、旧南ベトナムで結婚し、日本語がひと言もわからない異国にやってきたベトナム人の妻子との日常生活を、あたたかさと冷静さとユーモアをまじえた筆致でつづった『サイゴンから来た妻と娘』を上梓し、大宅壮一ノンフィクション賞を受賞したが、そのなかに、「ベトナム難民の涙」という一章がある。日本の最西南端の離島、沖縄県八重山群島の与那国島に、1977年4月にボートピープルとして漂着したベトナム難民86人を、妻をつれて取材に行ったときの記録である。 
 
 近藤は憤然として、こう書く。「日本の世論はベトナム戦争中、熱烈に他国の解放闘争を支持し、その反面、武器の部品やモーターバイクや電気製品をしこたま輸出して得た繁栄を享楽することに、何ら疑問を感じなかった。おまけに戦争が終わればすべてを米国と旧政権の腐敗ぶりに押しつけ、『わたしたちは単一民族国家ですから他人のことは知りません』では、諸外国もあきれて物が言えぬだろう」。そうかと思えば、なぜ人びと(そのなかには、金持ちもいれば、インテリも貧しい漁民も混じっている)は生命の危険を冒して夜の海に逃げるのかを理解しようという気落ちを最初から放棄して、依然として政治やイデオロギーを拠り所にした論議にうつつを抜かす。近藤は、難民への冷たさ、無関心さに見られる「私たち一人一人の、無意識の心の貧しさ」を空おそろしく思った。 
 
 日本政府は国際社会の批判を無視できず、最終的には1万人余のインドシナ難民を受け入れたが、日本での定住支援は短期間の日本語教育や職業訓練だけで、それが終わると日本での生活は地域社会に丸投げされた。慣れぬ異国での生活に戸惑う彼らに支援の手を差し伸べたのは、各地の市民団体や地元住民たちだった。やっと少しだけ開かれた難民への門戸は、その後は再び閉ざされてしまった。 
 
▽ミャンマー難民の民主国家日本への失望 
 1990年代後半から、民主化運動で弾圧されたミャンマー(ビルマ)の人びとが次つぎに日本に逃れてきた。日本はインドシナ難民問題を受け1982年に国連の難民条約に加入したが、政府は難民認定を求めるミャンマー人たちの声に耳を貸そうとはしなかった。内外の世論に押されてやっと難民認定をし始めたものの、その数は毎年一桁にとどまり、万単位・千単位の欧米諸国の受け入れ数とは雲泥の差だった。日本は民主主義国家なのだから、政治的迫害を受けて祖国を逃れざるをえなかった自分たちを難民として受け入れてくれるだろうと期待していた彼らは戸惑い、失望した。 
 
 ミャンマー人支援に立ち上がったのは、市民だった。在日ミャンマー人と日本市民が協力して1996年に設立したNGO「ビルマ市民フォーラム」(PFB)に私も参加した。民主化運動を支援するために彼らの日本での難民認定、日本社会のビルマ理解を深めるための講演会や情報提供、街頭デモ、外務省や国会議員へのロビー活動などをつづけた。労働組合の全国組織「連合」は、国際労働機関(ILO)が強制労働を理由にビルマ軍政への制裁を決定したことをうけて民主化支援活動に乗りだし、在日ビルマ人活動家らへの活動拠点の提供や傘下労組への啓発活動、国会議員らへのロビー活動をおこなった。それ以外にも各地で医療、日本語学習、住宅支援など在日ビルマ人たちの異国での日々の暮らしの手助けをするさまざまなボランティア活動がうまれた。 
 
 しかし、日本政府は積極的な難民支援策を打ち出そうとはしなかった。欧米諸国はミャンマー難民を多数受け入れるだけでなく、国民の自由を奪い民主化運動を弾圧するミャンマー軍事政権に対して経済援助の停止などさまざまな圧力や制裁を科すとともに、受け入れ難民の定住支援のために教育や福祉面での支援を行った。私はPFBのメンバーとともに何度か日本の外務省を訪れ、難民認定の拡大や生活支援を訴えた。「彼らは本来ならミャンマーの国造りの先頭に立つ有能な人材が多い。将来祖国の民主化が実現した暁には帰国して国家再建を担い、日本との貴重な懸け橋にもなるだろう。難民はわれわれの将来的な財産になるのだから、日本の国益の点からも、難民支援にもっと積極的になってほしい」と説いた。 
 
 だが、外務省の担当者の態度が変わることはなかった。民主主義国家でありながら、日本は欧米諸国とは異なり、軍事政権との関係を重視し民主化支援に消極的だったからだ。 
 
 いずれ祖国の民主化が実現する日が来るのを信じながら、異国での低賃金で不安定な仕事に耐え、それでもなんとか勉学だけは続けたいと願うミャンマーの若者たちは少なくなかった。だがそうした有為な青年たちは、日本でその可能性を見つけることはできそうにないと分かると、一人またひとりと民主化運動をつづけながら高等教育の機会を保障してくれる米国やカナダ、オーストラリアへと移住していった。せっかく親しくなったミャンマー人たちと別れるのが、私は残念でならなかった。 
 
▽人権よりカネ優先の詐欺的論法 
 このように、われわれ日本の政府も社会も、一部の市民をのぞけば難民に無理解で無神経であり続けた。根底にあるのは、苦境にある他者を国籍や民族などの違いに関係なく、おなじ人間として受け入れようとする精神の欠如である。この“人間不在〟の姿勢が、難民政策からこんどの外国人労働者受け入れにいたるまで一貫して受け継がれようとしている。そしてその事実を隠ぺいするために、さまざまな欺瞞がまかり通ってきた。 
 
 ボートピープルの受け入れを拒む理由として「単一民族国家」神話が持ち出されたが、日本は在日韓国・朝鮮人、中国人やアイヌなどのマイノリティーも住む多民族国家であり、しかも彼らがさまざまな差別に苦しめられている現実は無視された。 
 
 このときの日本と対照的な政策を打ち出したのが、オーストラリアだった。オーストラリアはもともと移民・難民によって成り立った国だが、長年にわたり「白豪主義」を国是としてきた。受け入れる外国人はヨーロッパなどの白人に限定され、アジア人などの有色人種は排除されてきた。だがベトナム戦争終結後、白豪主義を捨てて、すでにみたように10万人のボートピープルの受け入れに踏み切った。 
 
 その背景には、白豪主義の行き詰まりがあったことも事実だ。第二次大戦後のヨーロッパの復興とともに遠い南半球の国にまでより豊かな生活を求めてやってくる白人が減少しつつあった。経済力を維持、発展させるためにはアジア人にも門戸開放せざるを得なかったが、国内には白豪主義放棄への抵抗も根強かった。それを押し切って時の政府がボートピープルの大量受け入れに踏み切ったのは、ベトナム戦争への自国の参戦の責任を引き受けようとしたからである。「われわれは共産主義に反対して米国とベトナム戦争を共に戦った。そのベトナムから共産主義の新政権を嫌って脱出してくる人びとを見捨てることは道義的に許されないことである」という論理である。おなじ戦争で血を流さず、莫大な経済的利益にあずかりながら、戦争の犠牲者にはそっぽを向いた日本とは大きく異なる。 
 
 オーストラリアは以後、「多文化主義」を国の基本政策に掲げ、民族や宗教、文化などの違いに関係なくすべての人びとが平等な権利を享受して国造りに参加していく道を進んでいる。 
 
 ミャンマー人の難民受け入れを日本政府が渋ったのは、軍事政権との関係を重視したからだが、ここでも経済的利害がちらついていた。人権と民主化を力づくで封じ込めようとする独裁政権に欧米諸国が経済制裁を強化していくなかで、日本はミャンマーにとっての最大の援助供与国であり続けた。それを正当化するために、日本は「北風か南風か」という理屈を展開した。 
 
 イソップの「旅人とマント」の物語を比喩にして、軍政を徐々に民主化に導いていくには、欧米のように制裁強化という北風だけ吹きつけるのは得策ではない、それでは軍政はますますマントを手放さなくなる。そうではなく、経済支援の南風を吹かせることでミャンマーの経済発展を助ければ、彼らも国際社会との協力の必要性を理解するようになり、おのずから強権政治のマントを脱ぎ棄てるようになるはずだとされた。他のアジア諸国とおなじように、経済的におくれた国の発展には「開発独裁」が不可欠なのだ、と日本は主張した。 
 
 だがそのような政策の背景には、アジアの独裁諸国との関係とおなじように、国民の民主化を求める声よりも、腐敗した政治指導者とともに日本が経済的利益を分かち合うことが優先されていたことは間違いない。ミャンマーが2011年に軍政から民政に衣替えしたのは、日本の南風政策の成果ではなく、人権と正義にもとづく世界の創造をもとめるグローバルな世論の盛り上がりを軍政が無視できなくなったからである。 
 
 ミャンマー難民問題でしめされたのは、日本政府の人権・民主主義にたいするダブルスタンダードである。日本の政治指導者は、対米関係では両国はこれらの共通の価値観で結ばれた同盟関係にあると誇示する。だがその同じ価値観は、日本の経済的利益が優先されるアジアの独裁政権には適用されないのである。 
 
▽多民族・多文化共生の新しい国家像をめざして 
 このように、日本の難民政策に一貫しているのは、人権という国際社会の共通理念より自国の経済的利益を優先する姿勢である。あるいは、シリア難民の受け入れ拒否からは、単一民族国家主義のイデオロギーが透けて見えないだろうか。そしてこのような時代錯誤を修正しないまま、今度は一転して、労働力不足が深刻だから外国人を多数受け入れなければならないとして、ろくな審議もせず移民開国を強行する。これでは、外国人労働者の使い捨てが懸念されて当然である。 
 
 しかも、それによって日本市場で期待されている外国人労働者の多くは、かつて難民としての入国を歓迎されなかったベトナムやミャンマーなどのアジアの人びととされている。彼らがこれまでの自国難民に対する日本の冷たい仕打ちを知っているかどうかは別にして、日本での生活をつうじてこのアジアの経済大国はやはり人権よりゼニカネを優先し、アジア人を差別する体質が抜けていないのだということを再確認させてはならない。 
 
 世界では現在、移民・難民を排斥する動きが目立ってきている。欧州では難民受け入れの先頭に立ってきたドイツをはじめ各国で排外主義勢力が支持を獲得し、米国のトランプ政権の移民・難民排斥政策を歓迎する国民も少なくない。自国民優先の声に押されて、人権理念は危機に直面している。だが見落としてはならないのは、この動きは日本と異なり、これまで多くの外国人に門戸を開放してきたことへの反動として広がっているのであり、いずれの国でも排外主義に反対する国民の行動も活発であるという事実である。彼らは、グローバル化が進む世界にあって、伝統的な国民国家体制の矛盾に気づくと同時に、これまでの移民・難民政策の修正すべき点は修正しながら、多民族が平等の権利を保障されて平和的に共生できる新しい国家と社会のあり方を摸索しているのである。 
 
 こうした世界の潮流に大幅に立ち遅れてきた日本が、排外主義の台頭に便乗してこれまでの難民政策の過ちを放置したまま、新たに入ってくる外国人労働者の人権をないがしろにすることは許されない。国がさらに間違った方向に進まないよう、一人ひとりの「人間」を尊重する多民族・多文化の共生社会を築いていく努力は私たちすべての国民に課せられた21世紀の地球社会の共通課題である。そしてそれとの取り組みのなかから、私たち自身の人権も大切にされる新しい日本の展望がひらけていくのではないだろうか。 


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