2019年01月05日20時55分掲載  無料記事
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欧州

ユーゴスラヴィア社会主義崩壊の外因  岩田昌征(いわたまさゆき):千葉大学名誉教授

  一. 1978年8月社会学第9回世界大会 
 
  労働者自主管理経済と武装非同盟政策を根底に据えたユーゴスラヴィア社会主義は、その内部的諸困難だけが原因で崩壊したわけではない。内部的諸要因を利用し増幅させる外的諸工作を無視しては、ユーゴスラヴィア社会主義の崩壊を理解することができない。ここでは、外因のみについて考える。 
 
  私の手元に興味深い二冊の本がある。第一書は、ライフ・ディズダレヴッチ著『チトーの死からユーゴスラヴィアの死まで 証言』である。ボスニア・ヘルツェゴヴィナ国をセルビア人共和国とともに構成するムスリム(ボシニャク)人・クロアチア人連邦の首都サライェヴォで1999年に出版された。著者ディズダレヴッチは、ユーゴスラヴィア解体直前、1988年から1989年にかけてユーゴスラヴィア幹部会議長(大統領)をつとめたムスリム人である。第二書は、ドウシャンヴィリチ/ボシコ・トドロヴィッチ著『ユーゴスラヴィア解体 1990−1992』で、セルビア共和国のベオグラード、1995年の出版である。著者の二人は、ユーゴスラヴィア社会主義の連邦正規軍、ユーゴスラヴィア人民軍の将校であった。 
 
  ユーゴスラヴィア解体戦争において敵対し合った二つの首都で出版された二書がともに指摘するまことに興味深いスピーチがある。 
 1991年、社会主義ユーゴスラヴィア解体初発から今日にいたるまで、サライェヴォはアメリカに100%支援され、ベオグラードはアメリカに100%非難されて来た。そんな両首都で出版されたニ書がともに重要事件として強調するスピーチである。私=岩田は事実と見て、利用する。アメリカ大統領国家安全保障問題担当補佐官ズビグニェフ・ブレジンスキの発言である。(文献(1)pp.427-430、(2)pp.102-105) 
 
  1978年8月13日(あるいは14日)から19日、スェーデンの街ウプサラで社会学第九回世界大会が開かれ、全世界から5000人の研究者が参加し、ユーゴスラヴィアからも約50名が参加していた。大会直前、ブレジンスキは、一定数のアメリカ人参加者達(大会諸テーマの主要企画立案者を含む者達)にアメリカの戦略家達の世界情勢に関する諸見解をスピーチした。その中に、ユーゴスラヴィアにかかわる部分があり、ユーゴスラヴィアの構成共和国クロアチア社会主義共和国内務省公安部はその情報を入手して、連邦中枢に報告していた。 
 
  以下にブレジンスキの新しい対ユーゴスラヴィア戦略を両書に依拠して整理紹介する。 
 
  .熟△肇罅璽乾好薀凜アの対抗関係においては、ユーゴスラヴィアの中央集権勢力を支援する。同時にユーゴスラヴィア国内に関しては、中央集権勢力ではなく、分離主義的・民族主義的諸勢力すべてを支援する。ソ連におけるロシア人とウクライナ人、ユーゴスラヴィアにおけるセルビア人とクロアチア人、チェコスロヴァキアにおけるチェコ人とスロヴァキア人の間の緊張と不和、そしてベトナムとカンボジャ、ソ連と中国の間の対立が物語るように、民族主義は共産主義のより強力な天敵である。 
 
 ▲罅璽乾好薀凜アにおける反共産主義闘争においてマスメディア、映画製作、翻訳活動など文化的・イデオロギー的社会領域に浸透すべきである。 
 
  6産主義的平等主義に反対する闘争においてユーゴスラヴィアにおいて「消費者メンタリティ」をより一層刺激する必要がある。 
 
  ぅ茵璽蹈奪儷ζ餌僚国が対ユーゴスラヴィア信用供与を持続するよう発破をかける。ユーゴスラヴィアの対外債務増大はある瞬間に経済的・政治的圧力手段として使用できるからだ。短期的に見れば、それは西欧の貸し付け債権者にとって有害・不利益であっても、長期的には「ユーゴスラヴィア軟弱化」政策にとって有益である 
 
  ツ拘間外国に滞在し帰国するユーゴスラヴィア市民がユーゴスラヴィアでテロ活動・破壊活動に走らないように、そのかわりにアメリカ的・西欧的生活様式の宣伝扇動者となるようにより大きな注意を払うべきである。 
 
  Ε罅璽乾好薀凜アの様々な異論派グループに対しては、これまでとは異なって、ソ連やチェコスロヴァキアの場合にやって来たと同じやり方でシスティマティックに支援するようにすべきであり、我々の方針変更を広く世に知らせるべきである。支援の相手は必ずしも反共産主義者である必要はなく、もしろ「プラクシス派哲学者達」のような「人間主義者」の方が良い。この支援活動ではアムネスティ・インターナショナルのような国際組織を活用すべきである。ユーゴスラヴィアにおける西側とアメリカの最も信頼できる同盟者は、いわゆるリベラル知識人であり、彼等は、個人の自由、出版と芸術活動の無制限の自由、そして複数政党制を求めている。 
 
  Ч餾歸場面では、非同盟運動を更に分裂させ、その運動における西側の立場を強めるに役立つトロイの木馬になれる国を見つけるべきである。 
 
  Xディ(チトーの死)の後に、ユーゴスラヴィアの「軟弱化」に向けて組織的に取り組むべきである。民族間関係が主要ファクターである。ユーゴスラヴィア共産主義者同盟SKJとユーゴスラヴィア人民軍JNAがユーゴスラヴィア維持の信頼できるファクターであるのは、チトーが生きている限りである。SKJは、すでに政治的組織的独占性を失っている。JNAは、外敵には強いが、内部からの攻撃には弱い。全人民防衛体制は双刃の剣である。 
 
  1978年に秘密裡に示されたアメリカの対ユーゴスラヴィア新方針は、何か特別な調査や研究をしなければ書けないような深遠な質を有するわけではない。ユーゴスラヴィア弱体化と言う長期的外交目標をきちんと設定しさえすれば、ユーゴスラヴィアを知っている者=専門家ならば誰でもその気になれば書けたであろう。驚くべきことは、社会学の世界大会という最もアカデミックな知的活動の場が動き始める直前に少数の有力社会学者サークルにアメリカ大統領国家安全保障問題担当補佐官が直接伝えた所にある。 
 
  二.1999年10月5日セルビア大統領ミロシェヴィチ打倒 
 
 ブレジンスキが打っておいた布石の効果もあって、ユーゴスラヴィア共産主義者同盟は1990年1月に崩壊する。各構成共和国で自由選挙が実施され、続いて内戦の苦痛を通して各共和国が独立国家となる。諸国の中で、セルビアとモンテネグロの選挙では、反共産主義政党ではなく、共産主義者同盟が衣替えしただけの政党が勝利を得る。セルビア社会主義者党SPSのミロシェヴィチ大統領は、2000年10月5日まで、あの空前の民衆大示威集会の時まで権力を握り続ける。 
 
  1999年3月24日にアメリカが主導するNATO軍は、78日間連日セルビアを空爆するが、セルビア社会主義者党のしぶとく抵抗するミロシェヴィチを屈服させることが出来なかった。かくして、平和的打倒工作に切り換える。その中心人物が駐ブルガリア(1993−96年)と駐クロアチア(1997−2000年)のアメリカ大使を歴任したウィリアム・モンゴメリーである。 
 
   隣国ハンガリーの首都ブタペストにユーゴスラヴィア問題事務所を2000年8月15日に正式に開設するし、そのチーフをつとめる。私の手元に二冊の本、『歓呼が静まって 民主的移行をともなう闘争 駐ユーゴスラヴィア最後のアメリカ大使の回想』と『民主的移行をともに闘って 歓呼が静まって 駐ユーゴスラヴィア最後のアメリカ大使の回想』がある。モンゴメリーの著書であり、前者がセルビア語版、後者が英語版であり、2010年にベオグラードで出版された。大使自身の口から如実にセルビアの体制解体工作が語られる。 
 モンゴメリーにとってチャンスは、ミロシェヴィチ自身が作ってくれた。ミロシェヴィチは、セルビアとモンテネグロから成るいわゆる新ユーゴスラヴィアの大統領選挙を打ち出し、立候補した。モンゴメリーは、アメリカ国務省の方針に従って、ミロシェヴィチ敗北工作に専念する。 
 
 モンゴメリーの仕事は、以下の通り。 
 
  。隠坑坑闇代、諸々の反対派リーダー達が相互に抗争していて、候補者を一本化できなかった事がセルビア社会主義者党SPSの選挙勝利の最大要因であった。モンゴメリー自身が説得して反対派候補者の一本化を果たす。 
 
  ▲皀鵐謄優哀軋臈領ミロ・ジュカノヴィチをミロシェヴィチから切り離し、セルビアの野党側に味方させる。 
 
  諸野党へ支援し、助言する。 
 
  と織潺蹈轡Д凜チの諸NGOまたオトポルOTPOR(「抵抗」と名乗る学生青年組織)を人権や選挙監視の領域で立ち上げ、訓練し、支援する。但し、これらの多くは「私が登場する前に」立派に成立していたとモンゴメリーは認識している。 
 
  ィ臓檻坑欧里茲Δ別酖涎魯薀献の電波をハンガリーやボスニアから放送できるように「セルビアを囲む周円」を建設する。 
 
  ε時、全欧安保協力機構OSCE議長国だったオーストリーと協働して、野党勝利の確実性を高める。 
 
  Ю府がコントロールしているメディアに対抗するB−92のような独立メディア、多様な地方テレビ、様々の新聞を支援する。 
 
  ┘魯鵐リー人と駐ハンガリーのアメリカ大使に定期的に最新情報を伝える。(文献(3)、(4)pp.27-28) 
 以上のような大統領選挙に直接かかわるモンゴメリーの短期的活動だけがミロシェヴィチ打倒に結果したのではない。彼は言う。反ミロシェヴィチの人達への「国際共同体による長期の一貫した実質的支援がなかったとすれば、9月24日のミロシェヴィチ敗北と10月5日の事件は起こることはなかったと私は信じる。二年以上にわたって、反対派が市長をしていた諸都市は、外国から相応の支援を受けていた。政治的かつ金銭的支援、また助言や訓練が広汎多様なセルヴィアのNGO、独立メディア、諸政党に与えられていた。」((3)p.37、(4)p.38) 
 
 それでは、上記が語る所の「支援」の額は、どれほどであったのか。それは直接的・具体的に明記されていないが、2001年の金額が別の文脈で明記されている。「反ミロシェヴィチ・キャムペーンの相続財産として、モンテネグロは、我々から巨額の支援を手に入れていた(2001年にセルビアは1億ドルを受け取った。ちっぽけなモンテネグロは8700万ドルを手に入れた)。・・・モンテネグロの人口は65万人にすぎないのに。」((3)p.122、(4)p.126) 
 
  ちくま学芸文庫『独裁体制から民主主義へ 権力に対抗するための教科書』(ジーン・シャープ著/瀧口範子訳、2012年)の「あとがきにかえて」にジーン・シャープGene Sharp博士がこの教科書のミロシェヴィチ打倒に果たした役割を誇らかに述べている。 
「マレク・ゼラスウィツ〔ポーランド系のアメリカ人の社会学者〕がミロシェヴィッチ時代のベオグラードにコピーを一部持ち帰り、市民イニシャティブという組織に手渡した。市民イニシャティブはセルビア語に翻訳して出版した。ミロシェヴィッチ政権崩壊後にセルビアを訪れた際、抵抗運動にこの冊子が大きな影響力を持っていたと知らされた。 
 
  もう一つ重要だったのは、退役アメリカ陸軍大佐のロバート・ヘルヴィーがハンガリーのブタペストで20人のセルビア人の若者を対象に非暴力闘争のワークショップを行い、非暴力闘争の特性と可能性について伝えたことだろう。・・・・・・この若者たちは後にミロシェヴィッチを倒した非暴力闘争を率いた『オトポール』という組織になったのである。」((5)pp.140-141) 
 
  以上のように、アメリカの民主主義革命、いわゆる有色(彩色)革命の輸出が往昔のコミンテルンによる革命の輸出と同じく、あるいはそれよりも積極的に展開される時代の開幕がここに目撃される。 
 
 
岩田昌征(いわたまさゆき):千葉大学名誉教授 
 
 参考文献 
(1)Raif Dizdarevic,Od Smrti Tita do Smrti Jugoslavije Svjedocenje,Sarajevo,OKO,1999 
(2)Dusam Vilic/Bosko Todorovic,Razbijamje Jugoslavije 1990-1992,Beograd,Dic,1995 
(3)Vililjem Montgomeri,Kad Ovacije Utihnu Borba s Demokratskom Tranzjicijom Secanja poslednieg americkog ambasadora u Jugoslaviji,Beograd,DANGRAF,2010 
(4)William Montgomery,Struggling with Democratic Transition After the Cheering Stops,Beograd,DANGRAF Danas,2010 
(5)ジーン・シャープ著/瀧口範子訳、『独裁体制から民主主義へ 権力に対抗するための教科書』ちくま学芸文庫 2012年 
 
            平成30年(2018年)11月 
 
  この文章は、平成30年(2018年)11月11日に執筆された。同年12月26・27日に中国の揚州大学で開かれた第六回中日社会主義フォーラムで報告された。12月31日、師走に少々補足して、ここに発表する。 
 
平成30年12月31日 
 
ちきゅう座から転載 


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