2019年01月07日23時14分掲載  無料記事
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検証・メディア

新年早々、スポーツのカネ儲け主義を煽る東京新聞の社説  稲垣豊

 新年早々からひどい主張を読まされましたー。東京新聞の1月3日付の社説「平成とスポーツ 現状維持は淘汰される」のことです。 
 
・平成とスポーツ 現状維持は淘汰される(東京新聞2019年1月3日社説) 
http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2019010302000129.html 
 
 そこで記述されている内容とは全く無関係にもかかわらず、ひとりのおっさんの肉体的な限界とそれへの国家権力全体の肩入れによる時代区分が意識的に表題に組み込まれていることへの根源的批判はおくとしても、あまりにあきれた内容なので、お屠蘇気分もそこそこに、思わず書いてみました。 
 
 社説前半の、スポーツや五輪がビジネス化しており、それがアスリートに影響を与えているという指摘は、アマチュアリズムにおける貴族・エリート主義の問題が全く語られていないという問題(資本主義の時代における封建遺制としてのスポーツの貴族主義と後年における資本主義的包摂)を抜きにすれば、全くその通りです。 
 
 問題は、指摘されているスポーツのビジネス化を、既存の問題点(社説のタイトルでいえば「現状維持」)との二項対立のみで紹介し、現存する問題点の克服にはビジネス化しかない、しかもオリパラを通じたビジネス化しかない、と結論付けていることです。 
 
 社説はいいます。 
 
「教育の一環である体育を土壌に育ってきた日本のスポーツ界には、いまだにスポーツの事業化を推し進めることに拒否反応を示す人もいます。それらの人が地位や名誉を重んじてスポーツ団体の要職にしがみつき、現状維持を良しとして進化を阻み、時には不正が横行してパワハラ問題などもおこっています。」 
 
「一年後に東京五輪・パラリンピックが開催される今年、スポーツ業界が憂慮していることの一つに、『2021年問題』があります。大会が終われば、それまでの助成金や補助金が打ち切られ、国民の熱も冷めてしまい、活動がおぼつかなくなるスポーツ団体が相次ぐのではないかという危機感です。」 
 
「これからもネットやスポーツビジネスは勢いを増し、猛スピードで変化していくとは間違いないと思われます。乗り遅れれば淘汰されるのを待つばかりです。新たな時代を迎える今年は、東京五輪・パラリンピックの先も見ながら準備し、行動する。その中で、人も社会も磨かれるのです。」 
 
 つまり、スポーツ業界に蔓延する問題点を克服するには、ネット(ショーとしてのスポーツ、あるいはゲーム=eスポーツ)やスポーツビジネスへのさらなるシフトが必要だと訴えるのです。 
 
 2020年を分水嶺にして、少なくともオリパラ競技には莫大なカネを税金から出すし、施設についてはある程度税金で賄うが、それ以降はどうなるかわからないぞ、ということです。この主張には、オリパラもビジネス=カネ儲けの手段になっており、それに税金を使うことの問題にはまったく触れられていません。 
 
 これまで税金がつぎ込まれてきた既存の枠組みの問題をあげつらい、それよりも「民」による運営のほうがいいのだという主張は、「平成」の前からネオリベが強弁してきた公共サービス民営化の理論を彷彿させます。しかしはっきり言って、公共サービスにおいて「民」が利益を出すには、膨大な公的資金の投入が必要ですし、そもそも「利益をだす」こと自体が、利用者や労働者からの搾取を前提としています。 
 
 社説でもつかわれている「乗り遅れ」論は、ネオリベ推進者が「バスに乗り遅れるな!」と、「乗れ乗れ詐欺」よろしく「官から民へ」行きのバスに世論を押し込んだスタイルを想起させます。しかし問題は、乗り遅れるかどうかではなく、そのバスはどこ行きのバスなのかです。慌てて乗ってみたはいいが、よくよく見れば「規制緩和 経由 我利我利亡者の地獄の一丁目団地行きのバス」だったりはしなかったでしょうか。 
 
 さてスポーツに話を戻すと、莫大な費用を投じなければ成立しないオリパラそのものの不合理さが第一に指摘されるべきですし、放送権料やボランティア動員のための莫大な費用をかけて演出されることで獲得される利益の影には、出場したアスリートだけでなく出場できなかった膨大なアスリートの健康や生命を犠牲にするシステムがあります。 
 
 また、そもそもオリパラ種目以外のスポーツについては、まったく想定されていないような社説の論理だてに、アスリートをふくむすべてのスポーツ関係者は怒るべきではないでしょうか。 
 
 まるでオリパラ種目だけがスポーツであるかの取り上げ方は、けっきょくそれ以外の種目については税金を使わなくてもいいという流れに行き着きます。あるいは、魅せるスポーツとしてビジネスに特化するしかスポーツの生き延びる道はないという主張につながることで、とりわけ障がい者スポーツをさらに分断と差別の構造に組み込んでしまう危険性があります。 
 
 東京新聞はそろろそ、旧態依然の枠組みに税金を使うか、しがらみを脱するために淘汰を含めた市場の論理に従うか、という新自由主義の二分法に縛られた考えから自由になるべきではないでしょうか。 
 
 カネもうけや国家主義的エゴイズムのつぶし合いではなく、より自由で平等で民主的なありようを競い合う肉体活動は可能であり、そのために税金を投じることが必要であり、それこそが「人も社会も磨かれる」ということなのだということが、どうしてわからないのでしょうか。 
 
 「そんなことは理想だ」という意見があるかもしれませんが、そういう「理想」に投資するのが本来の税金の使い方でしょうし、人間本来のチカラの使い方のひとつではないでしょうか。 
 
 そんなビジョンは不可能だ、という悲観論者は退場してもらい、あらゆることに自由と平等と民主主義は可能だという楽観論者にこそ、スポーツ界をはじめとするあらゆる分野で席を譲るべきでしょう。 
 
 そんな希望ある人間とスポーツの在り方を考えるきっかけになる1月27日の谷口源太郎さん学習会の集まりにぜひ参加を。「勝つか負けるか」「官か民か」「ビジネスか教育か」といった分断をこえたスポーツのと人間の在り方考えたいと思います。 
 
 
【参照】東京オリンピックおことわリンク 
 
https://ja-jp.facebook.com/okotowalink/ 
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「誰のためのスポーツなのか;市民参加への道 谷口源太郎さん講演学習会。1月27日13:30/13:00開場、小石川運動場・2階会議室、飯田橋駅下車。 


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