2019年03月22日12時05分掲載
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岩佐敦士『王室と不敬罪』 総選挙が問う「タイ式民主主義」の実像と「微笑の国」のこれから
民政復帰にむけた8年ぶりのタイの総選挙を24日にひかえ、日本のメディアでもニュースが増えてきている。軍政が延命するのか、民主化への新たな転機となるのかが大きな注目点とされ、プミポン国王亡き後の「タイ式民主主義」の今後が問われようとしている。新聞社バンコク特派員の筆者が、これまでタブー視されてきた国王と政治対立の関係を精力的な取材と冷静な筆致により明らかにした本書は、いまも続く混迷の核心にせまろうとしている。「微笑の国」と称されるアジアの隣人の苦悩を理解し、それが日本にとっても無縁ではないことを知るための好著である。(永井浩)
▽「タイ式民主主義」とは何だったのか
現在のタイの政治的混乱は、2001年のタクシン政権の登場にさかのぼる。通信事業などで巨万の富を蓄積した新興実業家のタクシンは、通貨危機後の経済再建に手腕を発揮するとともに、地方の貧しい農民や都市貧困層支援の政策を打ち出し低所得者層の圧倒的人気を得た。だが、彼の独裁的な政治手法と汚職疑惑に首都バンコクのエリート層などから批判が高まり、06年に軍のクーデターで同政権は崩壊、彼は亡命を余儀なくされる。
その後、反タクシン派とタクシン派が政権交代を繰り返し、両派の衝突が何度か流血の惨事を招いた。軍は14年に再びクーデターで、タクシンの妹のインラックが率いるタクシン派政権から全権を奪い、軍人のプラユットが暫定政権を発足させる。そして軍事政権が再び民政復帰に向けて民意を問うのが今回の総選挙である。
筆者の岩佐が毎日新聞記者としてタイで取材に飛びまわっていたのは、インラック政権の誕生から間もない12年からプミポン国王の死去直前の16年までの4年半である。彼によれば、プミポン国王が築いた「タイ式民主主義」がタクシンの掲げるポピュリズム的な「民主主義」の挑戦を受け、大きく揺らいだ時期であり、この統治体制のほころびが今に至るタイ政治・社会の混迷の根底にあるとされる。
「タイ式民主主義」とは、国王の権威と議会制民主主義を併存させるこの国独特の政治体制であり、この体制下でタイは安定を保ち、東南アジアきっての豊かさを手に入れた。だが経済的発展は、その一方で深刻な貧富の格差や社会的矛盾、特権層の腐敗を生み出し、それへの批判がたびたび政治的対立となって噴出して時の政権を脅かし、流血の惨事を繰り返してきた。そしてそのたびごとに、立憲君主制のもとでは政治的権力を有しないはずの国王が、「国父」として政治対立の調停に乗り出し、混乱の収拾につとめてきた。しかし、タクシン政権登場後の新しい情勢は、従来の手法を難しくさせた。
その理由のひとつは国王の老齢化と健康の悪化にあるが、より大きな要因は、これまで政治の主要アクターではなかった農民や都市貧困層の覚醒である。タクシンの真意がどこにあったのかは別にして、彼らは選挙でタクシン派候補に一票を投じることによって自分たちの要求がかなえられることを知った。だからタクシンがクーデターで退陣に追い込まれたあとも、選挙が公正に行われるならタクシン派政党が勝利を収めることができるのである。彼らは、「民主主義」の尊重で結束した。
これに対して、軍人、高級官僚、王族、都市中間層、さらにタクシンとはビジネス利害が対立するする実業家たち特権層は、自らの既得権益を守るために反撃に出た。彼らは、「王制護持」を旗印にした。また民主主義は否定しないものの、それは無教養な農民、都市貧困層ではなく、欧米とは異なるタイの実情に合った形、つまり一定のエリート層が中心になって推進すべきであると主張して、民主主義の「行き過ぎ」には歯止めをかけようとする。
この両者の攻防のなかから、「タイ式民主主義」の実像が露わになってきた。岩佐はそれをこう記している。「プミポン国王のもとで国に安定がもたらされたが、統治の実権は王室に連なる特権層が握り続けた。そうした支配構造を脅かされない限りにおいてのみ、民主主義が認められていた。(中略)タクシンは農村部に築いた大票田をバックに、国王が築いた『タイ式民主主義』に挑戦した。農村住民らはタクシンの登場で自らの1票の持つ力を知り、この国の階級社会に疑問を抱くようになった。特権層はタクシンを『国王を頂点とするタイ社会の破壊者』と敵視した」
そこで、特権層が反撃の切り札としたのが、本書のタイトルとなっている「不敬罪」である。王室を批判したとみなされた者は、政治家のみならず学者、ジャーナリスト、一般市民、さらには外国人もこの法律によって罰せられ、不敬罪の是非を問うことさえ許されない。タクシンは「国王を尊敬している」と言いながら、「立憲君主制は厳格に順守されるべきだ」と主張して、王室の権威を悪用する「王室サークル」を批判したため「反王制」のレッテルを貼られた。現在のプラユット軍事政権は不敬罪を乱発して国民の反政府的言動を抑え込もうとする姿勢を強化している。
本書の面白さは、こうした的確な政治分析にくわえ、時代の転換期のなかで「微笑の国」の人びとは何を考え、いかに生きようとしているのかが、さまざまな立場の人びとの肉声を多数拾い上げて明らかにされていることだろう。
タクシン派と反タクシン派の政治指導者、実業家、活動家、大学講師、農民、スラムの人びとの支援者、不敬罪で獄中にある二児の母、国王をウルトラマン視する映画のプロデューサー、王室を連想させるストーリーで上映禁止となった映画の女性監督、王室と同じように聖域とされている仏教界の腐敗に切り込んだ小説の作者、タクシンを批判する僧侶、タクシンの元側近、タクシン派に寝返ったクーデター首謀者、タクシン支持から離れた元学生活動家、タクシン派の村長、タクシンも助言を受けた著名な占い師、プラユットと親密な関係にあるとされる占い師、ゲームソフトやDVDの海賊版を売る店員等々。さらにネット上にあふれる膨大な情報や、ウィキリークスで暴露された王位継承をめぐる王室サークル内の軋轢も見逃されない。
そこから浮かび上がるのは、当然のことながら、タクシンと反タクシンの両派ともけっして一枚岩ではなく、多様な考えや思惑にもとづいて展開される複雑な権力闘争の姿である。ただはっきりしている事実は、両派の対立はいまや階級闘争の様相を呈していることである。さらにタクシン派と称される人びとの運動が、グローバル化の波や世界的なポピュリズムの台頭と連動しながら、「タイ式民主主義」を乗り越える真の民主化をめざしているとみて間違いなかろう。だから王室を頂点とする伝統的な特権層は既得権益を守るために、もはやかつての神通力を失った王室の権威を利用してタクシン派への執拗な弾圧と懐柔に躍起になっているのである。
今回の総選挙がとりわけ注目されるのは、このような変革期においてタイ国民がどのような選択をするかが、同国の今後の政治体制のみならず強権的な指導者が民主主義を後退させているフィリピンやカンボジアなどの東南アジア諸国にも影響も及ぼす可能性があるためである。
▽「産みの苦しみ」への共感を
評者が本書をできるだけ多くの人に読んでもらいたいと思うのは、タイで起きていることを正しく理解するための基本情報が政治、経済、歴史、文化にわたって手際よく解説されているだけでなく、「親日的」とされるこの国の混迷にたいして私たち日本人がいかに向き合うべきかという問題意識を著者が忘れていないからだ。
タイ王室と日本の皇室は良好な関係を保ち、外交関係は戦後一貫して密接だ。自動車メーカーなど多くの日本企業が進出し、タイで暮らす日本人は7万人以上と米国、中国、オーストラリアに次いで4番目に多い。海外旅行先としても人気があるとともに、タイからの日本への観光客も年々増えている。だが、政治混乱が続くこの国で起きていることの多くを日本人はあまり知らない。タイで暮らす日本人も、大半はビジネスに主眼を置き、タイの政治への関心は低い、と岩佐は指摘する。
安倍首相は2015年、いち早くプラユット暫定首相の訪問を受け入れ、首脳会談に臨んだ。安倍首相は会談で早期の民政復帰こそ求めたものの、言論を抑圧する戒厳令の解除要求などには踏み込まなかった。タイの地元メディアは会談に同席した政府関係者の話として「安倍首相はプラユット氏のリーダーシップを称賛した」と報じた。日本の財界からはクーデター後も関係維持を望む声が上がっていたという。
だが本書を読めば、日系企業のビジネスは、人権と民主主義を抑圧し多くのタイの人びとを貧困に苦しめさせている権威主義的な構造のなかで展開されていることに気づくだろう。
「タイの政治や社会を自分自身に重ね合わせて考えるきっかにしていただければ」と願う本書の筆者はもうひとつ、「天皇と民主主義」という問題にも目をむける。「タイ式民主主義」の支柱とされてきた、国王という存在がもたらす霊的で抽象的な権力と民主主義の関係は、戦後日本の「天皇と民主主義」と無縁と言えるのかどうかという疑問だ。
詳しくは本書にゆずるとして、東南アジア研究者ベネディクト・アンダーソンの古典的名著『想像の共同体』で、タイと日本のナショナリズムが共に「公定ナショナリズム」に分類されていることを挙げている。「公定ナショナリズム」は、アメリカ独立やフランス革命で民衆からわき上がった「下からのナショナリズム」にいわば対抗する形で、支配層が国家統合のために創り上げた「上からのナショナリズム」を意味し、タイでは国王、日本では天皇がこの「公定ナショナリズム」の発揚に利用された。
「王制を維持するタイと違い、日本は敗戦後に象徴天皇制となった。それでもなお、天皇という存在を抜きにして日本人とは何かを問うことはできない」という筆者の指摘は、「平成」が終わろうとしている日本であらためて真剣に考えるべきであろう。
さらに付け加えるなら、外国人である日本人ジャーナリストにこのような問題意識を抱かせることになったのは、「微笑の国」の人びとの優しさとしたたかさであろう。「タイでの暮らしで日々感じたのは人々の優しさだった。仕事や私生活の様々な場面で温かな気遣いや思いやりを受け取り、一方で、いざというときに発揮されるタイの人びとの機転や発想の柔軟さに舌を巻くことも多かった」という。だから筆者は、試行錯誤を繰り返し、多くの血を流しながらも前進しようとするこの国の未来への希望を失うことなく、本書をこう結んでいる。
「私はこの国の人びとが、現在の政治混乱を、『王国の分断』を乗り越える産みの苦しみにしてくれるはずだと強く信じている」
(文春新書。920円+税)
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