2019年03月27日23時02分掲載
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社会
私の昭和秘史(11) 陸軍上層部の裏切りと 昭和天皇の大御心とは? 織田狂介
ここでまた、再び山崎国紀著『磯部浅一と2・26事件』の描写と解説に視点を移してみることにしたい。やはり、この著書のなかでの肝心な焦点ともいえる「青年将校たちの蹶起に対する昭和天皇の対応」について深く注目しておきたいからである。
「事件の終熄が一向に進捗しないことを知った天皇は、2月27日に至り『朕が股肱ノ老臣ヲ殺戮ス、此ノ如キ狂暴ノ将校等、其精神ニ於テモ何ノ恕スヘキモノアリヤト仰セラル、又或時ハ、朕カ最モ信頼セル老臣ヲ悉ク致スハ、真綿ニテ朕カ首ヲ締ムルニ等シキ行為ナリ、ト漏ラサル・・・』るほどになり、ついに『朕自ラ近衛師団ヲ率ヒ、此カ鎮定ニ当ラム』(本庄繁太郎陸軍大将による『本庄日記』引用)とまで激怒されるまで昂まったのである。この蹶起将校たちに対する憎悪と激怒は、26日午前6時に初めて事件の勃発を知らされたとき以来、微動だに変わらなかったものとみえる・・・」(中略)
この「天皇の御意志」がわかってくるに従い、かねてから青年将校たちが信頼し「蹶起したのちの国家革新」を期待し、その力添えを信じていた真崎甚三郎陸軍大将ら、いわゆる“皇道派”首脳たちの言動が微妙に変わっていくのである。つまり彼ら首脳部自身もまた唯一の拠りどころにしていた天皇の意思が、どうやら全く別なところにあることを悟ったからであろう。この点の消息については、山崎国紀氏もその著書のなかで同じようなことを記述しているが、ここでは省略しておこう。とにかく、この「天皇の予想以上の激怒ぶり」を知った真崎大将ら“皇道派”が川島陸軍大臣らを中心とするいわゆる“統制派”首脳たちの事件の対応「断乎たる鎮圧の方針」に従わざるを得ない状況に追い込まれていくことになる。
このへんの経緯について、山崎国紀氏は、「青年将校弾圧のために当初からデッチ上げられた架空のクーデター企図であったと信じている」(元東京憲兵隊陸軍大尉・大谷敬ニ郎著『昭和憲兵隊史』より)とする有力な説もあるが、松本清張氏による『2・26事件(第一巻)』で記述されている部分が、最も妥当ではないかと思われる・・・」
と指摘しているので、それらの部分を山崎国紀氏の著書から再録してみよう。
「私が、ここで想いをいたすことは、前途した元東京憲兵隊の大谷敬ニ郎が、いみじくも指摘しているように“この2・26事件が、当初から青年将校たちを弾圧するために仕掛けられた陰謀ではなかったのか・・・”という重大な示唆についてである。本稿の末尾で触れているように、私はもう一つの『2・26事件』ともいえる『神風特別攻撃隊』が、ひよっとすると同じように当時の陸海軍首脳による同じような思惟によるものではないかと思えてならないのだ」
この時期、軍首脳は皇道派系と統制派系とにおよそニ分され、熾烈な派閥闘争が繰り広げられていた。統制派は長州閥の流れをくみ、軍政と政治の連携において強力な統制主義を実行しようとした。統制派の将星としては、杉山元参謀次長、小磯国昭第五師団長、安部信行大将、寺内寿一台湾軍司令官、建川美次第十師団長らがいたがこの系統の最大の実力者は、永田鉄山事務局長であった。
これに対し、皇道派は「武断的国粋主義の色彩をおび」(松本清張氏)、精神主義、肝炎論的であった。この派の総帥は真崎甚三郎教育総監と荒木貞夫軍事参議官であり、他に香椎浩平第六師団長、秦真次第ニ師団長、山下奉文軍事調査部長らであった。磯部ら革新青年将校らは、政治に接触せぬ「武断派国粋主義」の皇道派、特に真崎大将にその革新を期待し、他の行動派将軍たちへの接触を図っていたのである。
この2・26事件が、実はこうした純粋な青年将校たちの「国家革新のための蹶起」ではなくて、そうした動きを徹底的に封殺しようとして「デッチ上げられた架空のクーデターであった」とする説が、あるいはこの事件の“闇(やみ)の部分”を物語る真相なのかも知れないと思われる、そんな消息をかいまみる思いがしないでもない。山崎氏は、そうした動きの一瞬を次のように記している。
――真崎は敏感であった。直接天皇に会い「鎮圧」の方向の認識をした川島陸相、特に「鎮圧」への強い決意を持って臨んでいる杉山参謀次官、これらの将軍たちのかもす雰囲気は真崎に伝わってきた。「あの蹶起将校たちはいずれ鎮圧されるだろう」、この方向は少なくとも皇軍相撃のないように、蹶起軍には鉾を収めさせなければならない。真崎には、青年将校たちへの期待と同情はあっても、加担の方向で収拾する意思は、この会議(註:軍事参議官会議2月27日)途上で消えていった。(以下略)
この陸軍首脳による「軍事参議官会議」の結果、作成されたのが事件収拾のための「陸軍大臣告示」であった。そして陸相官邸に拠っていた青年将校たちらに対して、山下奉文少将軍(のちの大将=太平洋戦争における比島軍総司令官)から、この告示が通達された。
一、蹶起ノ趣旨ニ就テ天聴ニ達セラレアリ
ニ、諸子ノ行動ハ国体顕現ノ至情ニ基クモノト認ム
三、国体ノ真姿顕現(弊風ヲ含ム)ニ就テハ恐懼ニ堪エズ
四、各軍事参議官モ一致シテ右ノ趣旨ニ依リ邁進スルコトヲ申合セタリ
五、之レ以外ハ一ニ大御心ニ待ツ
この「陸軍大臣告示」を受けた青年将校たちは「欣然としたのである」と山崎氏は綴っている。
――対島中尉が大きい声で聞いた。「われわれの行動が認められたのですね。そのところをはっきりして説明して下さい」山下は対島をジロッと見てそれには答えず、もう一度告示分を読んだ。紙面として渡されたのは後ほどであり、この段階での口頭朗読だけでは、何か隔靴掻痒の感はまぬがれない。磯部は少し焦ってきた。「われわれの鼓動が義軍の義挙であるということを認めるんですね」磯部も大きな声を出した。山下は今度は磯部の眼をジイッと見て、「もう一度読む、よく聞け」と言って3回目を淡々と読んで退席した。立会した古荘陸軍次官らは、にこにこして磯部らを見守ったが、磯部は一抹の不安を消すことができなかった。磯部のかすかな不安はやはり当たっていた。
「諸子ノ行動ハ国体顕現ノ至情ニ基クモノト認ム」と言っても誰が「認ム」のか不明確である。むろん天皇ではない。「天聴ニ達シタ」としても、この天皇の意思は全く分からない。結局「大御心ニ待ツ」以外ない。項目の一とニを冒頭に置くことにより、蹶起将校の殺気立った昂奮を鎮静させ、その部隊を帰順させる。そのための偽装であった。「之レ以外ハ一ニ大御心ニ待ツ」に籠められたものは決定的であった。蹶起将校たちに対するこれ以上の殺し文句はない。そして、この「大御心」の内実は少なくとも、真崎、山下は知っていたとみなければならない。この「陸軍大臣告示」文で、既に蹶起将校たちの運命は決定していたのである・・・と山崎氏は書いている。
――2月28日、「戒厳司令官ハ三宅坂附近ヲ占拠シアル将校以下ヲ以テ速カニ現姿勢ヲ撤シ各所属部隊ノ隷下ニ復帰セシムヘシ」とする奉勅命令が、陸軍参謀総長である伏見宮載仁親王の名によって下達された。つまりは、これが「大御心」であった。石原莞爾大佐(のち関東軍司令官)は、この直後に各部隊の連絡将校に対して「軍は、本28日正午を期して総攻撃を開始し、叛乱軍を全滅せんとす」という厳戒命令を口頭で伝達したのである。ここで「蹶起部隊」は明確に「叛乱軍」と規定された。
蹶起部隊のリーダーである磯部大尉は、このときの心情を、次のように記している。
「・・・声涙ともに下る 余は力なくハイと答へて訣別する、すべての希望が断離されたる無念さ 云わんかたなし」
こうした経緯ののち、私たちは当時の少年少女たちでも記憶に残る、あの有名な「下士官兵ニ告グ」のアドバルーンが、残雪の帝都上空に高々と揚げられた。――「今カラデモ遅クナイカラ原隊ニ帰レ 抵抗スル者ハ全部逆賊デアルカラ射殺スル オ前達ノ父母兄弟ハ国賊トナルノデ皆泣イテオルゾ」戒厳司令官・・・2月29日のことであった。
「すべての希望を断離されたる無念さ」と記した磯部浅一大尉の想いは、実はそのまま太平洋戦争の敗戦の日、あの昭和天皇の『終戦の詔勅』を聞いたときに私の胸中を去来した悲痛さと全く同じものではなかったのかと考えている。それは、これまで信じ切って歩いてきた一筋の道が忽然として眼前から消え失せたような、なんとも形容のしようもない無残な想いであるといえよう。言葉をかえれば、もう神も仏もないような真っ暗闇の中に茫然と佇んで、血みどろになった我が身と魂をひきつづたまま・・・とでも云えようか。
≪プロフィール>
織田狂介 本名:小野田修二 1928−2000
『萬朝報』記者から、『政界ジープ』記者を経て『月刊ペン』編集長。フリージャーナリストとして、ロッキード事件をスクープ。著書に、「無法の判決 ドキュメント小説 実録・駿河銀行事件」(親和協会事業部)・「銀行の陰謀」(日新報道)・「商社の陰謀」(日新報道)・「ドキュメント総会屋」(大陸書房)・「広告王国」(大陸書房)などがある。
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