2019年05月11日12時32分掲載
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是枝裕和監督「三度目の殺人」 平成の時代を象徴する1本
是枝裕和監督の「三度目の殺人」(2017)は平成の時代を象徴するシンボリックな作品に思える。真実とは何かを問いかけるこの映画は黒澤明監督の「羅生門」を想起させるが、違いは多様な人間のそれぞれの真実ということではなく、一人の被告(役所広司)が何度も犯罪事実の供述を変えることにある。脚本が工夫されているのは拘置所に出向いて被告と陪審員裁判のための打ち合わせをする「聞き手」である弁護士の設定である。福山雅治演じるこの弁護士はこれまで法廷戦術として、真実を多少改ざんしても被告の利益になる「物語」をこれまで重んじてきた男に設定されていることだ。
だが今回の複雑な事件では、弁護士は被告の言葉に翻弄されながら、弁護士自身が真実とは何か、ということに目を向けはじめ、彼自身が悩みながら大きく変化していく物語である。なぜ被告がころころ供述を変えるのか、当初は機械的に仕事を片付けようと思っていた弁護士はとうとう被告の家族のいる北海道までおそらく自費を費やしても出かけるようになる。この弁護士の設定には多少、国選弁護人の仕事ぶりへの批判もあるのかもしれない。
真実とは何か。また、それは誰のためになるのか。このテーマ設定は是枝監督がもともとはドキュメンタリーという記録の分野の出身であることと関係しているだろう。本来、人間の内面自体がもともと刻々と変わりえるものである。嘘も話すし、嘘でなかったとしてもそこに主観が入り、それぞれに都合の良い物語に編集されていく。だから、編集現場では常に撮影されてきた映像の山から、どんな物語を切り出すかが問われる。その過程で議論も当然起きる。だからこの弁護士はドキュメンタリーのディレクターによく似ている。真実を多少改ざんしても視聴者にヒットする面白い物語にしようとする人もいるのだ。
被告の転々とする供述の変化を描きながら、是枝監督はそれをしかと説明せず、観客自身が本当にそうなのかどうか、結論にまようように映画を組み立てている。誰に対しても何に対しても、おそらくこうではないか、という以上の確信が得られないように注意深く映画を作っているのだ。これはセルバンテスの小説「ドン・キホーテ」の、常に真実がどこにあるのか、読者に語らない手法と通底する。神の視点から物語を進めるのではなく、多様な人間の視点の寄せ集めの中から、物語を紡ぎだそうとした。これは真実のありかを問いかける法廷物語を作るにあたって大きな意味を持つ。
「ドン・キホーテ」は近代の最初の小説と位置付けられているが、その理由は神の目線で物語をつづるのをセルバンテスが拒否したことにある。誰も真実を知りはしない、という神の不在がそこにはある。あるいは、神の不在と言わなくとも、神の視点は人間にはわからない、というだけでもよい。そこに誰かが神の代わりとして唯一の真実をつづる、というのは傲慢だということである。だが、平成の時代、神の視点が知らず知らずのうちにTVの空間や茶の間で復活してきている気がする。誰かがわかりやすく「真実」を解説してくれる、という幻想が膨らんでいる。自分で考えることが面倒だから、だれかにまとめてもらいたい・・・これは強いリーダーへの願望でもある。そして「真実」はますます単純なものになりつつある。そのわかりやすい真実は瞬時に拡散する。そのことに是枝監督は危惧を感じているのだろう。真実を問うものは謙虚でなくてはならない、そんなことを改めて感じさせる映画だった。
村上良太
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