2019年05月31日05時05分掲載  無料記事
http://www.nikkanberita.com/print.cgi?id=201905310505195

みる・よむ・きく

スティーブ・マックィーン監督がセックス依存症を描く映画 ”Shame”(恥)  

  スティーブ・マックイーンというと、以前はハリウッドの活劇男優が浮かんだものだが、最近、英国の黒人で同名の映画監督が活躍しているのだ。そのスティーブ・マックィーン監督が2011年に作った「恥」(Shame)という映画は、セックスの描写が多いことで過激だと言われるが、同時に、その内容が現代人の生活に過激に切り込んだ、という意味で過激でもある。 
 
  「恥」ではエリートサラリーマンの30代の男が主人公だが、日夜、セックスのことで頭がいっぱいだ。電車に乗っていると、向かいに座っている女性客とやりたいと思い、家でも職場でもパソコンでポルノを見ており、マスターベーションをしている。さらには、コールガールを呼ぶこともある。とはいえ、仕事には支障をきたしていない。こうした男の生活をマックィーン監督は丹念に追いかける。彼はハンサムで、エリートなのになぜ普通の女性との生活が送れないのだろうか。だが、そうした人は現代に少なくないのだろう。 
 
  この映画はそうした現代人の謎に切り込んでいく。この映画が秀逸なのは男の妹を設定したことだ。妹は恋愛依存症で、常に相手の男にのめりこみ、おそらくはそれがあまりにも暑苦しいために、男から疎んじられてしまう。携帯電話で男になんとか話を続けて、関係を続けたいと懇願している。彼女は生活に窮して、兄のマンションに少しでいいから泊めてくれ、と言う。兄は迷惑そうにするが、しぶしぶ受け入れる。この兄の冷淡さもリアルに描いている。だが、決して兄は妹を憎んでいるのではないことがわかる。バーで歌手をしている妹の歌は、切々と幸せを願う女性の願いを表現し、胸を打つ。そして、この兄は涙を流す。おそらくは、妹は兄と対照的な存在として登場させたのだろう。コールガールとのセックスやインターネットでの異常なセックス妄想のマスターベーションでしか、この兄は性的欲求不満を解消できない。女性とつきあおうと試みたこともあるが、うまくいかないのである。それは、彼が恐らくは、女性に心を開くことができないからだろう。いや、女性だけでなく、すべての人間に対して閉じてしまっているのだ。だから、彼が関係を持てるのは幻想でしかない。 
 
  妹は、人間としては落第的な存在だが、こうした兄とは対照的である。自己完結していなくて、誰かとつながりたがっている。だからこそ、兄は妹の存在によって、自分の一応、マテリアル的かつシステム的には自己完結した生活が脅かされるために、妹に出ていけ、と言う。妹は自殺未遂をするのだが、その時、彼は自分がなぜ、このような事態に陥っているのか、理解できず、苦悶する。妹が家に転がり込んできたことで、彼の自己完結した一見、心地よい生活が破綻し始める。兄が恐れているものは、まさにこの妹のように相手にセックスだけではなく愛情や人間関係を求めてくる存在である。だが、そういう人間関係をおそらくはこれまでは彼はわずらわしいと思い、巻き込まれたくなかった。それでも、この映画の素晴らしさは閉じた男が、失敗こそすれ、その回路を開こうと試みることである。そこにこの映画を作った人たちの思いがあるのだ。彼が最も恐れているものが「妹」であり、妹が生活に介入してきたことがドラマを生む。 
 
  ドラマに妹を設定した上に、妹を落ちこぼれに設定したことが秀逸だ。この妹はそういう設定だが、見方を変えると、非常に素敵な人間でもあるのだ。こうしたドラマツルギーには英国の女性脚本家のアビ・モーガン(Abi Morgan)が大いに貢献しているようである。セックス依存症だけでは、映画にはならなかった。それを分厚いヒューマンドラマに作り上げたのは見事である。そして、この映画は、1950年代から1960年代にかけての「怒れる若者たち」と呼ばれる劇作家たちや映像作家たちと同様に、アメリカ的な善悪二元論のイデオロギー優先の映画ではなく、いかにも英国映画らしいリアリズムにあふれている。もはや、イデオロギーの映画は世界では存在理由を失っているのだ。 
 
 
■英国の脚本家、アビ・モーガンへのインタビュー映像 
https://www.youtube.com/watch?v=WCt060Gh_dg&fbclid=IwAR07KCBs_by2fBonqKhBNawvbYsvwtPT7kvR2xWd0UAaC9fScQVJDxFPRFc 
 脚本家のアビ・モーガンはサッチャー首相を描いた「鉄の女」(The Iron lady )や女性の選挙権を獲得するための闘いを描く「サフラジェット」(Suffragette )なども書いている。ここでは脚本を書くことについて彼女の思索や経験を語っている。脚本を書くことは正気を保っていくすべであり、観客には人は孤独な存在ではないことを知って欲しいと語っている。 
 
 
 
■フアン・ルルフォ著 「ペドロ・パラモ」 
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201108312155013 


Copyright (C) Berita unless otherwise noted.
  • 日刊ベリタに掲載された記事を転載される場合は、有料・無料を問わず、編集部にご連絡ください。ただし、見出しとリード文につきましてはその限りでありません。
  • 印刷媒体向けの記事配信も行っておりますので、記事を利用したい場合は事務局までご連絡下さい。