2019年06月30日15時14分掲載
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反戦・平和
田中克彦氏の講演「ノモンハン戦争の真実に迫る」を聴いて 安岡正義(やすおかまさよし):大分大学名誉教授
6月26日、大分大学経済学部の主催により、一橋大学名誉教授田中克彦氏の講演会がJR大分駅南にある文化施設、ホルトホールの会議室にて開催された。田中氏は社会言語学を専門とするかたわら、ノモンハン戦争(宣戦布告を伴わない軍事衝突は普通「事件」と呼ばれるようである。また田中氏によればロシア側の呼称は「ハルハ河事件」とのことである。)に関しても複数の著作を発表している。
講演を聴いて強く印象に残ったのはモンゴル民族の分断と民族統合の夢の挫折、そしてノモンハン戦争の終結と第二次世界大戦の勃発との関連である。
最初の点に触れると、1935年1月に、満洲国とモンゴル人民共和国の国境付近のハルハ廟で軍事衝突が起こった。6月に入り、両国は国境衝突の更なる進展を防ぐために、ソ連との国境に近い満洲国側の鉄道駅マンチューリにて交渉を始めた。満洲国側から参加したのは満洲国興安北省の省長だった代表、凌陞(リンション)と、興安北省軍司令官、ウルジン・ガルマーエフ中将らであった。モンゴル側代表はサンボーで、彼は駐ソ大使を務めた経歴を持つ全軍総司令官副官であり、また古参革命家のドクソムやモンゴル東部第二騎兵団長ダンバらを伴っていた。満洲国とモンゴル人民共和国との関係は友好的だったので、このマンチューリ会談がうまく進展すれば、ノモンハン戦争は無かっただろうと田中氏は評価する。
モンゴル人民共和国の住民はハルハ族、満洲国側の住民はバルガ族にダグール族、つまり部族は違えども同じモンゴル民族であった。1921年のモンゴル人民共和国成立、そして1932年の満洲国成立により、同じモンゴル民族が分断されてしまった(ここに「国境の人為性」の問題が典型的に現れている)のであり、田中氏の評価によれば、国境紛争解決の機会を利用して満・モ双方の代表団は民族統合の可能性を探ろうとした。これが日本の関東軍とソ連の強い警戒を招く結果となり、まず関東軍が動いて憲兵隊が36年4月に凌陞以下、興安北省要人6人を「通敵」行為の容疑で逮捕、銃殺してしまった。翌37年にはソ連が、モンゴル側代表団長サンボーを解任、銃殺し、ダンバも続いて銃殺された。講演を聴いているうちに、この凄惨な粛清の連続に暗澹たる気持ちにさせられたと同時に、少数民族の悲哀を痛感させられた。
もう一点、ノモンハン戦争と第二次世界大戦勃発との関連について言えば、1939年5月11日にホロンバイル草原で始まった戦闘は9月15日に停戦となった。同年9月1日、西からはドイツ軍が、東からはソ連軍がポーランドに侵攻して第二次世界大戦が始まったのは周知の通りであるが、スターリンは予めこれを見越し、二正面作戦を避けて西部戦線に戦力を集中するべく、ノモンハン戦争にそそくさとケリを付けたのではないか。かつて田中氏が面談した或るエストニア人は「日本側がもう少しノモンハンで頑張っていれば、ソ連によるポーランド侵攻もバルト三国の併合も無かっただろう」と述べたそうである。この意見の当否はともかく、ノモンハン戦争の推移がスターリンの戦略に大きな影響を及ぼしたことは間違いないだろう。
最後に、医師として従軍なさった松本草平氏の詳細な記録『茫漠の曠野 ノモンハン』が出版されていることを付記しておきたい。
安岡正義(やすおかまさよし):大分大学名誉教授
ちきゅう座から転載
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