2019年08月11日08時46分掲載  無料記事
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文化

「表現の不自由展」への違和感 主催者に欠落する作品・作者への連帯の覚悟 松本武顕

 「あいちトリエンナーレ2019」での上記展覧会場で、来場者が作品の写真と動画をSNSに投稿することを禁止すると掲示されたとのこと。主催側の芸術監督は「表現の自由がテーマだけに自由に写真を投稿してほしいとは思うが、イベント全体の安全管理に責任がある」 つまり、「ネットの炎上」が進行し、展示会の安全にまで影響が及ぶことを避けるためだという。展示作品は、3年前の同名の展覧会同様、慰安婦、先の戦争、天皇、憲法九条、現政権への批判などで問題/事件となったようだ。が、気になるのは、当時感じた“違和感”を今回の「禁止」報道にも覚えてしまうことだ。 
 
 「表現の自由」への制限、侵害「事件」となった作品を展示するのはよしとして、問題はその意図だ。この時期、「こんな作品が事件になったよ」「『表現の自由』の現状はこうだよ」と見せるのであったら、河童やろくろ首をならべた見世物小屋と大差ないように思えるのだが…。言い換えれば、主催者は、それぞれの作品・作者とどう連帯するのか、同じ地平で問題=表現への加害・侵害を受け止める覚悟があるかどうかが、いまひとつ見えないということかもしれない。 
「ネットの炎上」―良い宣伝になるではないか。「展示会の安全への影響」―「影響」のイメージは不明ながら、その影響を作者・作品と共にどう引き受けるか、主催側内部での確認の有無が問われているのではないか。 
 
’60年安保デモでのことだそうだ。国会前の座り込みに警官隊がごぼう抜きをかけた時、「何をするんだ!ここは大学の教授団ですぞ!」声の主は、当時テレビで威勢よく世の中を切り刻んでいた”評論家”先生。今もメディアに散見し、メディアも“芸人”同様重宝がる手合いだ。 
 
「表現の自由」は誰でもいえる。いま問われるべきは、表現を閉ざそうとする作品に対する加害を被害の側で受け止め、作者の「表現の自由」侵害を基本的人権への暴力として、その隣に立とうとする意志の表明ではないか。 
権力への異議を明快にした表現が保障されないところに「表現の自由」だけがポカっと存在するわけがない。公の言う「中立性」「公平性」が保障する自由ではなく、表現の主体を主張し得る自由こそ今、確認し、求める時ではないだろうか。 
 
―「ハトは泣いている」―  8.2、2019 


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