2019年08月19日21時54分掲載
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文化
「平和の少女像」に込められている思いは何か Bark at Illusions
愛知県で開催されている国際芸術祭の企画展、「表現の不自由展・その後」が中止に追い込まれた事件は、日本社会のいくつかの問題点を改めて示した。ひとつは、言うまでもなく日本の表現の自由の現状についてだ。かつてローザ・ルクセンブルクが語ったように「自由とは常に、異なった考え方をする者にとっての自由である」。気に入らない作品が展示されているという理由で展覧会を中止に追い込もうとする社会は、自由ではない。展覧会に公金が使われていながら日本政府の意にそぐわない展示物があったことを問題にする人もいるが、権力者にとって好ましい意見を言うだけの自由なら、どんな独裁的な社会にも存在する。民主国家なら、公的機関こそ、多様な意見や表現を保障する義務がある。もうひとつ、この事件が浮き彫りにしたこととして問題にしたいのは、戦時の性奴隷を模した少女像への日本人の無理解だ。
「表現の不自由展・その後」では、「慰安婦」と呼ばれる戦時の性奴隷を模した「平和の少女像」が特に注目を浴びた。展覧会への抗議の約半数が少女像に対するもので、主催者が展覧会中止の理由として具体的に挙げた脅迫事件も、少女像を問題にしていた。また政府の助成金を受ける展覧会で「平和の少女像」などの作品が展示されたことに対する政治家からの抗議の声も相次いだ。河村たかし名古屋市長は「日本国民の心を踏みにじる行為で、行政の立場を超えた展示」だと抗議して展覧会の中止を要請し、松井一郎大阪市長は「公金を投入しながら、我々の先祖があまりにも人としての失格者というか、けだもの的に取り扱われるような展示をすることは、違うんじゃないか」と評価、吉村洋文大阪府知事は「反日プロパガンダ」を愛知県が主催したことを問題視した。表現の自由は擁護しつつも、この3人の歴史修正主義の政治家と同じように、少女像を不快だと感じたり、「反日」の象徴と捉える人も少なくないのではないか。
しかしそれは大きな誤解だ。「平和の少女像」の作者、キム・ソギョンさんとキム・ウンソンさんは「元慰安婦の苦痛を記憶する」ための象徴として像を制作したのであり(朝日19/8/6)、企画展実行委員の岡本有佳さんが語っているように、少女像には、
「被害者の心に近づき、同じようなつらい思いをする人が二度と出ないようにとの願いが込められているのです」、
「『平和の少女像』は日本政府や日本社会だけでなく、韓国社会も含めて、見る人の人権意識のありようを静かに問う普遍的なものなのです。『反日』や『反韓』とは次元の違う話です」(毎日19/8/13電子版)。
ソウルの大使館前に建てられた「平和の碑」などの少女像も、同様の思いが込められている。
河村市長や松井市長のように「慰安婦」問題は捏造だと思い込んでいる人もいるので、念のために確認しておくと、戦時の性奴隷は、日本政府も認めている歴史的事実だ。
「慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については……朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた」(「慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話」 外務省 1993/8/4)
もしこのような日本の過去の犯罪を直視することができず、少女像に込められた思いを素直に理解することができないなら、日本が被害者だった別の例を考えてみよう。
「サダコの折り鶴」のことは、ご存知の方も多いだろう。2016年に米国のバラク・オバマ前大統領が被曝地・広島を訪問した際に、自身が折った折り鶴を寄贈したことでも注目を浴びた。「サダコ」は、広島で被爆し12歳で亡くなった佐々木禎子さんのことで、禎子さんが闘病中に回復を願って折り鶴を折っていた話が世界に広まり、現在では折り鶴は平和の象徴となっている。また広島平和記念公園には、禎子さんら原爆で亡くなった子どもたちの霊を慰め、世界に平和を呼びかけるために、頭上に折り鶴を掲げる禎子さんをモデルにした「原爆の子の像」が建てられた。同様の像は、米国のシアトルの平和公園にも建てられている。
折り鶴や「原爆の子の像」は、日本に2発の原爆を投下して20万人以上の人間を殺害した米国の「国民の心を踏みにじる」ためのものでもなければ、「反米」を象徴するものでもない。折り鶴は平和への思いを込めて折られるのであり、広島の「原爆の子の像」の下に置かれた石碑には「これはぼくらの叫びです これは私たちの祈りです 世界に平和をきずくための」という碑文が刻まれている。もしアメリカ人が折り鶴や「原爆の子の像」を見て不快だと感じるなら、それは折り鶴や子どもの像が不快なのではなくて、日本に原爆を投下してたくさんの市民を殺した米国の行為があまりにも残虐であるために、過去に自国が犯した残虐行為として向き合うことに耐えられないからだろう。
河村市長が少女像の展示を「日本国民の心を踏みにじる行為」だと感じるなら、それはかつて日本が行った行為として直視することができないほど残虐な行為を日本軍が行ったからだろう。松井市長が少女像を見て「我々の先祖」を「人としての失格者」「けだもの」のように扱っていると感じるなら、それは日本軍が行った「慰安婦」と呼ばれる女性への行為が「人としての失格者」がすることであり、「けだもの」のような行為だったからだ。
「慰安婦」問題で不快なのは、少女像ではなくて、大日本帝国時代の軍による行為だ。日本の犯した過去の過ちを直視できるなら、現在の日本人がそれを恥じる必要はない。平時は優しく理性的な人間が、残虐で野蛮な人間になる。帝国時代の日本に限らず、それが戦争というものだ。だから戦争はもう二度としない。それが「サダコの折り鶴」や「平和の少女像」に込められている思いだ。それを「反日」と捉えて過去の罪を消し去ろうとするなら、日本はまたしても自らを貶めることになる。
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