2020年02月29日03時02分掲載
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「Democratic Debacle 民主党の敗北」The defeat of Hillary Clinton was a consequence of a political crisis with roots extending back to 1964. ヒラリー・クリントンの敗北の根っこは1964年に遡る ジェローム・カラベル(社会学)
本論考はカリフォルニア大学バークレイ校の名誉教授、ジェローム・カラベル教授(社会学)が2016年11月の米大統領選の翌月に発表したものです。米民主党のヒラリー・クリントン候補はなぜトランプ候補に敗れたのか。その根源は1964年に遡る、というのがカラベル教授の見立てです。民主党の変遷を知ることで、それが理解できるのです。4年前の論考は、米大統領選を迎える今読んでも決して古びることのない洞察を与えるものです。それはまたサンダース候補と中道派の候補者の民主党予備選を見る時に遠近法を与えてくれるでしょう。カラベル教授の許可を得てその論考を訳しました。(編集部 村上良太)
『民主党の敗北〜ヒラリー・クリントンの敗北の根っこは1964年に遡る 警告の徴は明白だった』by ジェローム・カラベル(カリフォルニア大学バークレイ校名誉教授)
1月20日、多くの人にわずか2〜3週間前には本当に起こるなどとは思えなかったことが現実となった。ドナルド・トランプが45代米大統領として就任することだ。トランプの勝利は多くの面でブレグジット投票と重なるところがあるが、世界で起きている政治、経済、文化のエリートに対する反乱の1つだったのだ。そしてまた、グローバリゼーションによって起こされた経済や社会の混乱に対するポピュリストの反乱でもあった。そのグローバリゼーションは多国籍企業の利益によって占められており、またネオリベラリズムの思想によって悪化しているものである。それは規制緩和、免税、民営化、社会福祉の削減、自由貿易、自由な資本の運動などによる。
▼ゴールドウォーターからレーガンへ
しかし、ヒラリー・クリントンと民主党の敗北は米国に特有の政治的危機の結果でもあり、その根源は1964年に遡る。この年、その後長く続く白人の共和党への移行が始まったのだ。
リベラルのリンドン・ジョンソン(民主党)が保守のバリー・ゴールドウォーター(※ 共和党)と大統領選を争った時、1932年に始まり米国政治を支配してきたニューディールの共闘路線(※New Deal coalition) に初めて亀裂が生じることになった。原因は公民権運動にあった。公民権運動は深南部の白人の間に強い反感を生んだ。そして、伝統だった民主党への支持を切り替え、サウスカロライナ州、ジョージア州、アラバマ州、ミシシッピ州、ルイジアナ州の5州が共和党の手中に落ちることになったのだ。共和党を率いていたのは州の自決の権利があるとして、公民権法案に反対していた男である。ジョンソンはゴールドウォーターに大差で勝ったが、もはや南部諸州が民主党に忠実である、ということはなくなってしまった。
1968年までに公民権、学生、反戦、その他の60年代の対抗運動の高まりへの不満が募り、長く続いた労働者、南部、北部の黒人やリベラルの白人たちのニューディールの共闘(New Deal coalition) が次第に脆弱化し、解体へと向かっていた。この時期、最大の変化は北部で起きた。北部の労働者の多くは白人だったが、彼らの中には、この時代に顕著な人種暴動や学生の反乱にうんざりしており、民主党支持をやめてリチャード・ニクソンに投票した人たちも多かった。その結果、イリノイ州、オハイオ州、ニュージャージー州、インディアナ州など労働者階級を大量に抱えるすべての北部州で共和党が勝利したのである。同時に、南部の動きも活発になっていた。かつての南部連合11州のうち9州はニクソンか、レイシストのジョージ・ウォレスに投票した。ウォレスは「今日も(有色人種は)隔離、明日も隔離、永遠に隔離!」と語った男である。
1968年の大統領選挙に先立ち、ケビン・フィリップスという名前の若いニクソン候補のスタッフが優れた、先見の明のある「共和党が多数派になる」(The Emerging Republican Majority)という本の原稿を書いた。この中で彼は1968年に、民主党のニューディールのヘゲモニーは終焉し、新しい共和党の共闘が新しいセクションから台頭する、と主張した。
特に、「サンベルト」と呼ばれる南部と西部諸州、そして「ミドルアメリカ」の都市とその郊外においてだ、と。60年代の政治的な激変は、フィリップスによると、進歩的なものではなく、「アメリカの大衆のポピュリスト的な反乱であり、・・・それは序列社会、エスタブリッシュメントのリベラリストの官僚たちが采配する政策や課税に対する反乱であった」。
1968年の選挙の結果、リチャード・ニクソン(共和党)が301票、対するヒューバート・ハンフリー(民主党)が191票、ジョージ・ウォレスが46票の選挙人をそれぞれ獲得し、フィリップスの分析を裏付ける形となった。ウォレスに投票した人は、フィリップスによれば、共和党に鞍替えして明確な多数を与えるには気が引けた人々だ。「黒人票は必ずしも共和党の勝利には必要はなかった」と彼は指摘している。ニクソンが1972年に23ポイント差で歴史的な勝利を得た時、フィリップスが共和党を優勢に導いたこのケースは注目に値する。
ウォーターゲート事件は一時的には共和党の多数派の趨勢を遅らせることにはなり、南部出身で南部に支持の高い中道のジミー・カーター(民主党)を1976年に勝利させることになった。しかし、1968年にすでに見えていた政界再編の傾向は1980年のロナルド・レーガン大統領(共和党)の決定的な勝利で確かなものとなった。現職の大統領に対して、479対49という圧倒的なものだった。この1980年の大統領選は選挙の再編にとどまらず、政策も政治言説もともにその限界を根底から変える、大統領職そのものの変化にもなった。
税金の引き下げ、小さな政府、強い国防などのシンプルなスローガンとともに、レーガンは長年続いてきたニューディールの思想に対して強固な代替案を打ち立てた。実際、レーガンの選挙演説は人種偏見がなかったわけではない。レーガンは結局、1980年の大統領選挙をミシシッピ州のフィラデルフィアで始めたのだが、そこはちょうど16年前に3人の公民権運動の活動家が残虐に殺された場所だったのだ。どこであってもレーガンの新自由主義の経済政策とソ連に対する激しい敵意の組み合わせは大きな人気を巻き起こした。1984年の大統領選では民主党候補のウォルター・モンデールを525対13という圧倒的な差で倒した。モンデールは労働組合よりで、大きな政府の提唱者として広く知られた政治家だった。ニューディールの共闘(New Deal coalition) はここで雲散霧消することになった。
▼ 民主党のジレンマ
過去5回の大統領選のうち、4回敗北したうえに、そのうち3回は大差だったことで、民主党は真正のジレンマに陥った。いったいどうすれば共和党の驚くほどパワフルな大統領に打ち克ってホワイトハウスを再び手に入れることができるのか? 答えはモンデール候補の敗北の際に浮上してきた。それは民主党内で「第三の道」を目指す経済界に親和性の高いDemocratic Leadership Council (DLC)という形で現れたのだった。ロナルド・レーガン大統領の右派の保守主義と、ニューディールのリベラリズムやその伝統を汲むthe Great Society(偉大な社会)との中間に位置しようというものだ。Democratic Leadership Council (※DLC)は1985年に設立され、公共の問題について市場主義的かつ官僚主義とは異なる解決を目指すものだった。また外交に関しても強硬な姿勢を取る。DLCはレーガン大統領やサッチャー首相の新自由主義と異なる政策は取らなかった。ただ、無条件に中道の道を取るということだった。ビジネスにおいて規制を減らし、政府のプログラムについては大規模なものはできるだけ減らす、ということだった。新しい民主党を目指すNew Democratsたちは福祉を削減し、税制の累進性を減らし、刑罰の厳罰化を含めた犯罪に対する厳しい措置を取った。技術系出身の北部のリベラルであるミカエル・デユカキス候補(民主党)がジョージHWブッシュ候補(共和党)に1988年に決定的な敗北を喫したことによって彼らは大きな推進力を得て、DLCのソフトな新自由主義は間もなく民主党の支配的なイデオロギーとなった。
The Democratic Leadership Council(DLC)はレーガン大統領やサッチャー首相のネオリベラリズムへの対抗策を持ち合わせていなかった。そればかりか、無条件にネオリベラリズムに乗ることにしたのだ。ビル・クリントンがDLCのリーダーシップのトップに上り詰めるのは1990年で、彼が1992年に大統領に選出されたことが民主党が企業よりの、あるいは企業に依存する党になった転機である。これでは2016年にドナルド・トランプを破ることなど不可能だったのだ。そうは言っても、クリントンが唯一成し遂げたことはホワイトハウスを過去24年間のうち20年間共和党が支配してきた後に2回、大統領の座に輝いたことであり、このことは否定することはできない。
ビル・クリントンの個人的な成功は代償を伴った。1994年に民主党は上下両院ともに少数派になってしまった。これは数十年で初めてのことだった。クリントンは共和党と民主党を右に舵取りする上下両院の民主党議員らと三角形の形で政策を作り、民主党内の反対派を遠ざけていった。この戦略の一端として、ミシェル・アレクサンダーが記しているように、黒人に甚大な被害を与える犯罪と福祉のパッケージ法案を提出し、通してしまった。
新しい民主党として、クリントンは1993年に北米自由貿易協定(NAFTA)の締結に甚大な政治的資産を投じた。民主党内から出る激しい反発を押しのけての事だった。さらにクリントンは人権問題を理由にした中国を最恵国待遇から除外するという公約を反故にした。
さらに二期目に入ったクリントン大統領は金融サービス近代化法(Financial Services Modernization Act)を発効させた。これは商業銀行と投資銀行を分けるグラス・スティーガル法を反故にするものだったが、のちにウォール街のさらなる規制緩和につながり、多くの識者が2008年の金融崩壊=リーマンショックを招いた原因と見ているものである。また2000年には中国のWTO入りをロビー活動で推進したのちに、中国との貿易正常化を議会に求めた。これが米国の製造業の雇用を240万人分失わせることになった法案である。ロナルド・レーガンによって進められた新自由主義と手を切るどころか、クリントン大統領はさらに新しい段階まで推し進めたのだった。
▼オバマの挫折した切望
近代史上最低の支持率だった、8年間のジョージ・W・ブッシュ大統領の共和党時代の後、バラク・オバマが2008年に根本的な「変化」を〜具体的に何かは定義されていなかったが〜求める人種を越えた熱狂的な支持を集めてホワイトハウス入りを勝ち取った。Reno Gazette-Journalで、当選する8か月前のインタビュー記事で、オバマ候補は「ロナルド・レーガンはアメリカの軌道を、リチャード・ニクソンも、ビル・クリントンもやらなかったやり方で変えました。レーガンはまったく異なる進路に私たちを招き入れたんです。」と語っていた。メッセージは明瞭だ。民主党の予備選を勝ち抜く上で、オバマの敵だったヒラリー・クリントンのようにではなく、オバマ候補はアメリカの軌道を変える大統領となりたかったのである。
8年間を経て、私たちはオバマ大統領の時代が変化の時代でも、再編の時代でもなかったことを見ることができる。大恐慌以来のひどい経済危機の真っただ中に大統領になり、オバマ大統領の仕事は全体の崩壊を食い止めることだった。この任務を遂行しながら、オバマ大統領は1つの核となるネオリベラリズムの教義から離れた。緊縮ではなく、8000憶ドルに上る資金を投じて第二の大恐慌を防ごうとしたのである。しかし、言い方を変えれば、これもネオリベラリズムの教義に忠実だったとも言えるのだ。「ビジネスの信頼」を壊す政策は決して取らない、というものである。そして、経済危機を招いた責任のある強固な金融企業群を含め、必要な資本を惜しみなく注いだのだった。
ウィキリークスのおかげで、今となってはオバマがウォール街から助言をもらい、それに従っていたことが分かっている。大統領に当選する前からだ。目を見張るのが2008年10月6日のシティグループの重役だったミカエル・フロマーがオバマのホワイトハウス入りのためのチームの共同リーダーであるジョン・ポテスダ(2016年のヒラリー・クリントンの選挙戦にも参加した)に当てて書き送ったEメールである。フロマーは「様々な筋から推薦された」ものとして31人の閣僚レベルのポストの候補者リストを送ったのだ。実際にEric Holder (Attorney General), Robert Gates (Defense), Rahm Emmanuel (Chief of Staff), Peter Orszag (Office of Management and Budget)を含め、このリストに極めて近い陣容となった。財務長官にはこのリストは3人の候補者を挙げている。Timothy Geithner, Larry Summers, そして、Robert Rubinである。結局、Geithnerが財務長官に就任し、SummersはNational Economic Councilのディレクターになり、Rubinは非公式の信頼されるアドバイザーとなった。
ウォール街からの支持を得て、オバマは米国で極めて不人気な複数の金融機関に顕著に優しい政策を提案した。巨額の納税者の資金でこれらの金融機関の救済が行われたが、この危機を招いたウォール街の重役たちの誰一人として訴追されない決定だった。同時に、オバマ政府はこの金融危機で家や年金を失うことになった数百万もの人々に対してほとんど何もしなかった。その結果、ウォール街への手ぬるい処置や明白な犠牲者への支援の欠如に対して人々の怒りが沸騰した。さらに、ティーパーティが台頭し、Affordable Care Act (Obamacare)=オバマケアを敵視する声も高まり、中間選挙で民主党は大敗、下院では64議席を失い、上院でも10議席を失う結果となった。
2012年の米大統領選で、オバマはビル・クリントンのように、様々な支援者を結びつけることに再び成功した。そして、それが再選への十分なものだったが、それでも差は4ポイントという僅差だった。だが、民主党は再び2014年の中間選挙で大きく敗れ、下院で13議席、上院で7議席を失った。1964年以来、上下両院で民主党がもっとも数を増して多数派となったのが2008年だが、2014年にオバマは両院で大差をつけられ支配を失った。
▼庶民の怒りの兆候
2015年4月、ヒラリー・クリントンが大統領選への立候補を表明したのはこのような政治的な風景の中だった。警告の徴は明白だった。民主党は中間選挙で2回連続で敗北を喫していた。経済の回復は未だに遅れていた。右からはティーパーティが、左からは「ウォール街を占拠せよ!」などの運動が起き、それらは政治への高まる不満を示していた。こうした国政への広範な不満の高まる雰囲気の中に、元国務長官で、元ニューヨーク州上院議員、さらにファーストレディだったヒラリー・クリントンが参入してきたのである。彼女こそが体制変革を求める人々にとって旧体制を体現する人物だった。
共和党でも民主党でも予備選ですぐさま明らかになったのは、右であれ、左であれ、エスタブリッシュメントに対するポピュリスト的な怒りだった。だが、党のエリート幹部たちの反応はそれぞれ非常に違っていた。共和党の場合、トランプ候補を軽蔑していたものの、別の候補者で党を統一することは不可能で、結局、トランプ候補を推すことになった。一方、民主党の場合は、表面は中立のDemocratic National Committeeを動かし、大口の寄付者とメディアのサポートを得て、バーニー・サンダースの左からの強力な反乱を鎮圧することに成功したのだった。それにも関わらず、74歳の高齢のサンダースは、「政治革命」のため民主的社会主義者に呼びかけ、22州で勝利し、予備選の43%もの票を得たのである。
民主党候補だったバーニー・サンダースは2016年のニューハンプシャーでの予備選の夜、2月9日にニューハンプシャーのコンコルドの集会で手を振った。2016年1月まで、最初の投票が行われる前にすでに、成り行きを注意深く見守っていた人々にはクリントンの危うさは目に見えるものだった。有権者の多くはヒラリー・クリントンに好感を持たなかったのだ。さらに圧倒的多数の人々はクリントンは「正直ではなく、信頼できない」と見ていたのである。また過半数の人々は「普通の人々の暮らしに必要なことや問題など」どうでもいいと思っていると見ていた。後者の見方は民主党候補者たちにとって先例のないものだった。同じように困ったことは、クリントンは11月の選挙で決定打となりうるこうした人々の票を得られそうになかったことである。
通常なら、このような数字は党の指名を受けたいと思っている者には決定打となろう。だが、民主党のエリートは〜その献金者、スタッフ、そして選ばれる官僚たちは「スーパーデリゲート」を構成するわけだが〜今回はヒラリー・クリントンの回だとずっと前から決めていたのである。オバマもまた、静かにジョー・バイデンに諦めさせようとし、ヒラリーがサンダースと長く続く苦い選挙戦をしているときにそっとヒラリー支持に回った。11月8日の敗北は、募るポピュリストの怒りの年に、民主党のエスタブリッシュメントがヒラリーを選出する決定をしていたことを抜きに理解することはできない。
▼「コアのメッセージは何なんだ?」
クリントン陣営はドナルド・トランプが最後に残るホワイトハウス入りへの障壁となったことで喜んでいた。というのもレイシスト、排外主義、女性嫌いの発言を予備選で盛んに語ったうえ、その問題のある行動は大衆から「感情的な面で大統領になるには適さない」と見なされるだろうと支援者たちから保証してもらっていた。その間、トランプやサンダースとは異なり、ヒラリー・クリントン陣営は1つのメッセージを探していた。85もの標語を挙げて、そこから「ともに強くなる」という面白みのない言葉を選んだ。あまりにも中身がなかったために、憂鬱なジョエル・べネンソンは〜クリントンの主任世論調査スタッフだったが〜選挙戦のリーダーであるジョン・ポデスタに今年2月、「彼女が信じている何かの言葉はないかな?あるいはコアなメッセージになるものでもいいんだが」とEメールを送らざるを得なかった。
クリントンは長年、大統領の座を狙っていたが〜2008年に敗退の痛手を負っていた〜2013年1月に任期を終えた国務長官としての2年間の言動が、彼女の大統領選出のチャンスとともに民主党のチャンスをもまた葬り去るリスクを抱えていた。2013年から2015年の始めまでにヒラリー・クリントンは92回講演を行い、2170万ドルを支払われていた。さらに、夫のビル・クリントンは大統領職を終えた2001年1月以後、542回の講演で1億490万ドルを受け取っていた。これらの講演を行った相手はアメリカの大企業群の聴衆で、
、そのうち3回行われたゴールドマンサックスには1回、22万5千ドルの講演料だったが、まさに2008年のリーマンショックの経済危機の渦中にいる企業群だった。
しかしながら、クリントンの演説のすべてが民間企業向けだったわけではない。非営利団体向けの1つのよく知られたケースは2014年3月の、資金の乏しいカリフォルニア大学ロサンゼルス校向けのものだった。クリントンのこの時の演説料金は30万ドルだった。大学の担当者が公立大学なので値引きをお願いしたら、クリントン側から30万ドルは大学向けの激安料金だと言われたという。
2012年の選挙戦でバラク・オバマはミット・ロムニー(共和党)を心のない金権政治家だと語った。ロムニーはアメリカの労働者の仕事を外国に移したからだ。そして、この主張はペンシルバニア州やウィスコンシン州、オハイオ州、ミシガン州の白人の労働者に支持を得るのに十分だった。ドナルド・トランプは億万長者であり、長年労働許可証のない労働者や小さな独立業者たちから搾取した人物であるだけに、まさに同じ攻撃がふさわしかった。だが、ヒラリー・クリントンはアメリカ企業群から巨額の資金を投じてもらい、特にウォール街から手厚く資金を支援されていたため、そのような指摘をするにはふさわしくなかったのだ。彼女の選挙戦の失敗の大きな部分はこの種の攻撃をもっともらしく行うことができなかったことだと言える。
恐らくグローバリゼーションと製造業の衰退に取り残された人々に向けたポピュリスト的なアピールはできないと悟って、ヒラリー・クリントン候補の選挙運動はオバマ大統領の共闘したアイデンティティを軸とする連合に焦点を当てることにした。主要なターゲットグループは黒人、ラティノ、アジア系、ミレニアム世代の若者、そして白人の女性だった。
しかし、このキャンペーンは明確なメッセージを欠いていた。結局、カリスマに決定的に乏しいヒラリー・クリントンはオバマに集結した人々の連合を十分に集めることができなかった。オバマは2012年のロムニー候補との選挙戦であらゆるグループで少しずつロムニー候補に勝ち、大きな勝利とつなげたのである。African-Americans (88-8 v. 93-6), Latinos (65-29 v. 71-27), Asian-Americans (65-29 v. 71-27), and millennials (55-37 v. 60-37).
1つの例外は女性である。とはいえ、ここでも、ドナルド・トランプの目に余る数々のセクシスト的言動や性的ハラスメントが広範に報じられたにも関わらず、クリントンはわずか1ポイントの差でしか勝っていないのだ。女性は有権者の52%を占めるのだが、彼女たちはクリントン陣営が想定したようには投票しなかったのである。男女間の差はリアルだが、女性はむしろ人種や階級に沿って投票する傾向があった。白人女性はトランプを53対43と支持したし、大学出ではない白人女性の場合は67対28という圧倒的な差でトランプに票を投じた。大学出の白人女性の場合ですら〜クリントン陣営の鍵となる評伝と見られていたが、実際にはトランプは45対51という差で敗れたに過ぎなかった。
クリントンの単眼的な社会階層問題に関するダイバーシティを強調する選挙キャンペーンは、ウィキリークスで暴露された副大統領の選択に関するメモで明らかだ。3月17日にEメールで、クリントン選挙陣営のチーフであるジョン・ポデスタは「候補の名前をラフにグループ別に並べてみた」それらは、ラティノに始まり、女性(全員白人)、そして黒人(全員男性)だった。さらに、白人男性(最終的にはこのグループのティム・ケインが選ばれていた)や若干の軍人やビジネス界のリーダーたちだった。だが、グループ別に動員するアプローチはしばしば抵抗にあっていた。これについて、トーマス・エドサールは「それぞれの人種や属性などのグループにアピールしようとするクリントンの努力は逆の効果を掻き立てていた。トランプ候補はこの反感を自分の決定的なプラスに取り込んでいた」と書いている。
しかし、それにもかかわらず、国政レベルではダイバーシティに基づいた連合を軸とするクリントンの戦略は極めて成功していた。しかも、280万票の差で票数自体では勝っていたのだ。しかし、米国の選挙ではエレクトラルカレッジ(アメリカ選挙人団)によって結果が決まる。これが選挙人票(全538票)の過半数に当たる270票を州ごとに集めていく闘いだ。ここにおいてクリントンの戦略は失敗した。それが明瞭だったのが、「ラストベルト」と呼ばれる工業地域だった。
なぜトランプがオハイオ州、ウィスコンシン州、ペンシルバニア州、ミシガン州で勝利したかを理解するための最初のステップがトランプ候補は明快で響き渡るメッセージを発信していたということである。共和党の教義から離れ、トランプ候補は絶え間なくNAFTAやTPPなどの「自由貿易」を攻撃した。さらに、国境管理ができなかったために、アメリカには何百万人もの記録のない(あるいは、彼の好みによると、不法な)移民が存在することを攻撃し、さらに、イラク戦争やシリアの内戦のような不要な戦争に米国が巻き込まれていると言って攻撃した。「アメリカを再び偉大にする」というトランプ候補のスローガンや、「アメリカファースト」という強調、さらに「忘れられたアメリカ」という言葉で語られるミッドウエストの白人の労働者階級の人々に向けたアピールだった。まさにトランプ候補が勝利したのはこのような州だったのである。
▼白人労働者階級の反乱
多くのアナリストたちはクリントンの失敗を白人労働者階級のレイシズムや排外主義に責任があるとしている。実際に、トランプ大統領の支持者には他の候補よりもレイシズムや排外主義的な態度をとる傾向が高いというデータには事欠かない。しかし、バラク・オバマと言う名前の黒人大統領はペンシルバニア州でも、オハイオ州でも、ウィスコンシン州でも、ミシガン州でも2008年と2012年のいずれも勝利を飾っているのだ。しかも、いずれもかなりな差を開けてだ。実際、トランプの勝利につながった州の白人労働者たちの多くはオバマ氏に二回とも票を投じているのである。面白いことに、ラストベルトの中で、黒人の中ですら2016年の選挙でトランプに票を投じた人々がいるのである。というのもこれらの州で民主党に投じた黒人票の割合が下がっているからだ。
だが、これらのトランプ大統領選出の決定打となった工業地域の4州の中心となる力は白人労働者であることは疑いようもない。これらの各州で、大学進学していない白人労働者はペンシルバニア州では71−26、オハイオ州では70対26、ウィスコンシン州では69対26、ミシガン州では68対24という風に圧倒的にトランプ候補に投票している。大学進学していない白人女性の間でも、男性と同様である。ペンシルバニア州では58対38、オハイオ州では55対41、ウィスコンシン州では56対40、ミシガン腫では57対38でトランプ候補に投票した。これはまさに本物の労働者階級の反乱なのである。
ぞっとするような先見の明のある記事が今年の7月に書かれたのだが、そこでは映画監督のマイケル・ムーアが〜彼自身もミシガン州フリントの出身だが〜トランプ候補がグレートレイクス(五大湖)に臨むラストベルトの4州、ミシガン州、オハイオ州、ペンシルバニア州、ウィスコンシン州に焦点を当てて、大統領選に勝利するであろうことを伝えていた。「グリーンベイからピッツバーグまで、これがイングランドの真ん中であり、一文無しで、憂鬱で、必死になっていて、中流階級と呼んだ残骸とともに煙突があちこちに散らばっている」「怒り、惨めな働く人々(そして失業した労働者)・・・・彼らは民主党に捨てられたと感じているのだ」実際、ヒラリー・クリントンはほとんどこれらの人々に語ろうとしなかった。選挙キャンペーン中、一度もウィスコンシン州を訪れなかった。その一方で、アリゾナ州へはラティノの票を求めて無益な旅をしているのである。ところが、結局、もともと共和党の州であるアリゾナ州を民主党支持に変えることはできなかった。その間にも、労働者階級の状況は悪化し続けていた。1975年から2014年にかけて、大卒ではない男性の白人の平均収入は(インフレ率を是正してみると)20%も減少している。2007年から2014年にかけての7年間では14%も下降しているのだ。
▼ トランプの支持者への軽蔑
だが、白人労働者階級に関する民主党の問題はその経済的な利益を守る政策が実現できないことから重大になった。というのは、学歴の相対的に低い白人が民主党から離脱していくのは文化的な次元の強い原因があるのである。というのは〜正当化なしにではないが〜多くのリーダーたちが彼らを見下していると感じていることだ。民主党のエリートたちから尊厳や敬意をもって見られていない、というこの感情は今では有名となったニューヨークでのLGBTによる資金集めパーティの場における発言で確かなものとなった。このとき、ヒラリー・クリントンは「皆さんはトランプ支持者の半数は私が嘆かわしい人々のバスケットと呼んでいる範疇の人たちと思ってください。セクシストで、ホモフォビアで、排外主義で、イスラム嫌悪者です」そして、彼らの中の何人かは「救いがたい」と付け加えたのだ。このヒラリーの発言と洗練された人々の笑いは、トランプ大統領支持者たちに多くの民主党員たちは彼らを軽蔑しているのだと思わせた。ダイアン・ハッサンによれば〜彼の任務はヒラリー・クリントン陣営のために未だ判断を保留している有権者250人にインタビューして、その後も関係を保ちながら調査をすることだったが〜まさに判断を保留していた有権者たちがトランプ支持に決めたのがこの瞬間だったと言う。それはFBI長官のジェームズ・コミイの発言よりも、Eメールの問題よりも、ビル・クリントンがロレッタ・リンチと会っていたことよりも、はるかに決定打となったというのだ。
ヒラリー・クリントンはこれらの人々に向けてほとんど何も語る努力をしなかった。ウシスコンシン州には選挙戦中、一度も足を運ばなかった。その一方で、ラティノの票のためにアリゾナ州まで無益な旅行をしている。1980年代以来、新自由主義に対抗するのではなく、企業よりの姿勢を採択した民主党は政治的、経済的、文化的な危機に陥っている。2016年の選挙での敗北の後、民主党は深刻なダメージを受けている。共和党がホワイトハウスのみならず、上下両院と支配しており、さらに、遠からず最高裁も支配するのだ。50州のうち31州で共和党知事が座り、35週の州議会上院と32の州議会下院で共和党が支配している。民主党はオバマの二度の勝利ののちに、今抱えている厳しいリアリティに目を向けなくてはならない。オバマの2008年の大勝利の時から比べると、民主党は下院で64議席、上院で11議席を失っているのだ。
しかし、 米国の政治のトレンドは驚くべき速さで変化しうる。1964年にジョンソンがゴールドウォーターに23ポイントの差で勝利したのち、1968年にはニクソンの勝利となる。この時、ニクソンはマクガバンに23ポイント差で勝利していたのだが、1976年にはカーターが勝った。敗北のショックはまだ新鮮だが、民主党の進歩的な勢力が力を得つつある。民主党のナショナルコミッティー(Democratic National Committee)のリーダー争いで、有力な候補はミネソタ州のキース・エリソンで、下院の進歩的会派の共同リーダーであり、黒人・ムスリムでもある。さらに、エリザベス・ウォレンやバーニー・サンダースは民主党で最も影響力のある政治家たちとなるだろう。
米国でも外国でも、2016年はポピュリストの反乱の年だった。ジョン・ジュディスが鋭い新刊本「ポピュリストの爆発」で書いているように、ポピュリストの運動は主要政党がきちんと対応しないか無視している、本当の問題を早期に警報する装置なのである。だが、左派と右派でポピュリズムは根本的に異なっている。左派のポピュリズムは2項対立で、「民衆対エリートあるいはエスタブリッシュメント」という構図である。一方、右派のポピュリズムの場合は3つ巴の対立で「民衆対エリートであり、エリートに対する怒りは、彼らが移民やイスラミスと、黒人運動家たちを甘やかせていることにある」。2016年にトランプの右派のポピュリズムが席巻した。まずは共和党予備選であり、次に総選挙だった。だが、欧州と違ったのはバーニー・サンダースという左派で勝ち目のある候補が台頭したことである。もしサンダースが民主党の候補者となっていたら彼が勝利していた可能性がある。サンダース対トランプがどうなるか知るすべもないが、大統領選挙前日の1638人の登録投票者の世論調査によると、サンダース候補はトランプ候補に12ポイント差で56対44で勝利していたというのだ。
クリントンの選挙戦の最後の日々は顕著にインスピレーショに欠けていた。講演者たちはしばしばアンドラ・デイのポップな「ライズアップ!」という歌の音響とともに大きな声で話した。2016年の選挙では反乱が見られたが、クリントンの選挙陣営が予測したものではなかった。民主党員たちが今、考えるべきことは、民主党内における反乱が〜今年はアウトサイダーの年だったが〜ドナルド・トランプをホワイトハウスから駆逐する最良の道だったかどうか、ということだ。
ジェローム・カラベル(社会学者 カリフォルニア大学バークレイ校・名誉教授)Jerome Karabel (Professor of sociology, University of California at Berkeley)
翻訳 村上良太
※New Deal coalition ニューディールの共闘路線
The New Deal coalition was the alignment of interest groups and voting blocs in the United States that supported the New Deal and voted for Democratic presidential candidates from 1932 until the late 1960s. It made the Democratic Party the majority party during that period, losing only to Dwight D. Eisenhower, a pro-New Deal Republican and extremely popular war hero, in 1952 and 1956. Franklin D. Roosevelt forged a coalition that included the Democratic state party organizations, city machines, labor unions, blue collar workers, minorities (including Jews, Southern and Eastern Europeans, and African-Americans), farmers, white Southerners, people on relief, and intellectuals.[1] This coalition provided Roosevelt with popular support for the many large-scale government programs that were enacted during the New Deal. The coalition began to fall apart with the bitter factionalism during the 1968 election, but it remains the model that party activists seek to replicate.
(ウィキペディア)
(1932年から1960年代後半まで、ニューディール政策を進める民主党を選挙で応援した共闘。この期間、民主党が大統領選で敗れたのはアイゼンハワー大統領の4年だけだった。だがアイゼンハワーも〜戦争の英雄でもあった〜またニューディール政策に理解を示す大統領だった。共闘の構成要素としては民主党の組織、労働組合、ブルーカラーの労働者、マイノリティ(ユダヤ系、欧州からの移民、黒人など)、農民、南部白人、生活保護世帯、知識人など。この共闘を得て、ルーズベルト大統領は大規模な政府プログラムを実施できた。これがニューディール政策だった。1968年の選挙戦で、この共闘路線は分裂してしまう。とはいえ、この共闘は今日も民主党内の活動家にモデルを提供している)
※Democratic Leadership Council (DLC)
The Democratic Leadership Council (DLC) was a non-profit 501(c)(4) corporation founded in 1985 that, upon its formation, argued the United States Democratic Party should shift away from the leftward turn it took in the late 1960s, 1970s, and 1980s. One of its main purposes was to win back white middle class voters with ideas that addressed their concerns.The DLC hailed President Bill Clinton as proof of the viability of Third Way politicians and as a DLC success story.
The DLC's affiliated think tank was the Progressive Policy Institute. Democrats who adhered to the DLC's philosophy often called themselves New Democrats.
(ウィキペディア)
DLCは1985年に設立された非営利法人。米民主党は1960年代から80年代にかけて取ってきた左翼路線を払拭すべきだと主張。その目的は白人中流層の利益に答え、彼らの支持を取り戻すためとされた。
ビル・クリントンの成功をもってDLCは「第三の道」路線の可能性とDLCの成功の証であるとする。DLCの関連組織として、Progressive Policy Instituteがある。DLCに参加した民主党員は
よく「New Democrats」と自称する。DLCは2011年にその役割を終えたとして解散された。ウィキペディアによれば、DLCの活動記録は非営利法人のClinton Foundationに買われたとされる。
※バリー・ゴールドウォーター(共和党の政治家1909-1998)
「ゴールドウォーターはネルソン・ロックフェラーニューヨーク州知事との熾烈な指名争いを勝ち抜き、1964年大統領選挙における共和党の大統領候補に指名された。ゴールドウォーターは、ロックフェラーに代表される共和党の主流派及び穏健派が、実際には民主党の政策と類似した、ニューディール路線を踏襲した政策を実行してきたに過ぎず、共和党の独自色を打ち出していないと批判した。そこで、彼は共和党の本来の主張、「小さな政府」、政府の市場経済への介入の限定化、強硬な反共路線、反共主義に基づくNATO加盟国との協調、NATOの強化、ヴェトナムにおけるドラスティックな解決、を直截な言葉で訴え、国民の前に従来より明確な選択肢を提示した。こうした姿勢から、彼は現代アメリカにおける保守主義運動の先導者(コンサバティブのアイコン)とみなされることが多い。同時にアメリカ公民権法に反対し、同法に対する不満を抱く南部の白人層を取り込み、共和党の南部への進出を図った。」(ウィキぺえぃあ)
■「大いなる幻影:流動性、不平等とアメリカンドリームについて」ジェローム・カラベル(カリフォルニア大学バークレイ校 名誉教授)”Grand Illusion: Mobility, Inequality, and the American Dream” By Jerome Karabel
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201702181404256
■アメリカの警察による殺人 ジェローム・カラベル(カリフォルニア大学バークレイ校 名誉教授) “Police Killings Surpass the Worst Years of Lynching, Capital Punishment, and a Movement Responds ” By Jerome Karabel
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201702191613380
■「Democratic Debacle 民主党の敗北」The defeat of Hillary Clinton was a consequence of a political crisis with roots extending back to 1964. ヒラリー・クリントンの敗北の根っこは1964年に遡る ジェローム・カラベル(社会学)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=202002290302266
■ギリシャ問題1 〜ギリシャ債務危機を引き起こした金融権力〜 本山美彦(「変革のアソシエ」共同代表・京大名誉教授)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201507111630296
■ギリシャ問題2 〜SYRIZAの勝利とギリシャの政治的風土〜 本山美彦(「変革のアソシエ」共同代表・京大名誉教授)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201507120139250
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