2020年03月28日15時42分掲載  無料記事
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コラム

ドキュメンタリーとマイクロペニス 3  

  前回二度にわたり、筆者の2センチ余りのペニスの極小問題を書いたところ、望外に多くの方に読んでいただいているようです。筆者はTVの報道番組などを生業にしてきた人間で、情報を求めワシントンDCやらモスクワやらパリやらアフリカやら様々な国や地域を往来してきましたが、自分の人生に直結する問題に関して、情報を入手し、真剣に対処する、ということを怠けてしまい独身のまま、齢55歳になってしまいました。その意識が変わったきっかけは前にも書きましたが、偶然欧州で制作されたマイクロペニスを扱ったドキュメンタリーを見たことです。それは英国の製作だったと思うのですが、医師や当事者、その親や友人などが出てきて、ペニスのサイズの統計のばらつきのデータの分布なども含め科学的見地で描かれていました。「短小」という言葉を越えて、極小と言えるサイズの人々が一定割合で存在していて、マイクロペニスと呼ばれているのです。(ある情報源では1000人に6人の割合という記載もありました)日本でそうした情報に接したことがなかったものですから、非常に示唆に富む内容に感動しました。 
 
  何より自分の場合の壁はそれをどう考えたらよいか、という基準となる知識がなかったことで、学校の教育課程においてもそのようなことは一度も取り上げられたことはありませんでした。DNAの問題なのか、発育上の異変なのかすらわかりませんでした。そもそも異常なのかどうかもわかりませんでした。ともかく自分のような人間を再生産することは避けたいと思いました。今だったら、LGBTの権利が拡張していますから40年前に比べるとずいぶん変わっていることと思うのですが、それでもまだ性器のサイズとか、女性の場合はバストのサイズとか、こうした性に関わる肉体をどう考えればよいかは、個人の自己責任というか、勝手に考えて、というに任せている気がします。しかし、やはり恥ずかしさもともない、なかなか医師や保健室の専門家の前で肉体をさらす、というのは難しいのではないでしょうか。それでもインターネット時代であることや、LGBTの問題がオープンに論じられたり、同性婚が容認されたりするようになると、40年前に比べて、こうした性器や性的な肉体の事柄も正しい情報に接する機会が増えているのではないか、と思います。とくに海外の教育機関や医療機関の情報にアクセスできることが大きな進歩と言えるでしょう。 
 
  筆者の場合、実家に帰ると両親によく「いつ結婚するのか」と聞かれたり、「お前さえよければわしが相手を探してやろう」などと言われたりしたものです。いったいなぜ結婚していないのか、当事者の気持ちを察する、ということは皆無です。筆者自身、親にそのことを相談したこともなかったわけですが。筆者の場合、異性愛でしたが、中学生の頃から漠然と結婚は無理だな、と思っていました。普通の家庭生活が無理なのであれば、外国を旅するような仕事につきたいといつしか思うようになりました。「ブレードランナー」というSF映画でサイボーグの人間が、自分たちを創造した博士に、なぜ自分たちは自己による生殖ができないのか、と怒って殺すシーンがありますが、現実社会で親を殺すと尊属殺人という最も重い殺人罪に問われます。「ブレードランナー」の博士と違って、親とてそのようなことを望んだわけではないはずです。しかも、サイズが何であれ、今の時代、様々な手段がありますし、生殖が不可能と言うわけではありません。最も大きな問題は、自分の肉体を理想の肉体のモデルに比較してしまうことではないでしょうか。ペニスの偏差値の例であったように、学校の成績と同様に極小から、平均サイズ、そして極大まで分布があります。過去の通念では、しかるべき男性の理想的肉体像、しかるべき女性の理想的肉体像があり、そこからの距離が遠ければ遠いほど、劣等感が大きくなったのかもしれません。しかし、ペニスの極大のケースは40センチとか言われていますが、大きくてもそれはそれで生活は楽ではないようです。新聞記事で見たことがありますが、長いペニスをずぼんの片方に入れているのです。そもそも「理想」というものが存在する、と考えると筆者のような極小の人間でなくとも、誰でも多かれ少なかれ劣等感を持ちやすい認識の枠組みがうまれてしまいます。 
 
  たとえばペニスが極小である、ということは胎児期に何らかのホルモンの異常があったのかもしれませんが、その分、十分に男性化を遂げられなかったとしても、女性から肉体的あるいは脳的な距離が離れていないことは、必ずしも悪いことではないかもしれないのです。それが悪いことだ、あるいは劣っている、と見るのは男尊女卑の価値観が存在したからかもしれないのです。だから、逆にそれをプラスと考えれば、今までとは異なる可能性や意識が作り出せるかもしれません。と、同時に、様々な意味で、男性性とか女性性というものは絶対的かつ画一的なものではないのかもしれないのです。 
 
 
村上良太 


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