2020年04月27日21時24分掲載
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コラム
「嬬恋村のフランス料理」 26 再出発 原田理(フランス料理シェフ)
軽井沢1130で送った料理人としての僕の生活は充実していました。東京での消費生活の中で失ったものを一つずつ取り戻して、新しく人生をつくるのは楽しかった。生涯にわたって記憶に残る出会いがたくさんあり、料理人として初めてともいえる師との出会いや、生涯の伴侶となる愛妻やたくさんの仲間など、ホテルの人間として生きていくために必要なことをたくさん得ることができ、また派遣社員だった僕が、最終的にホテルの一番上に近いところで仕事ができるようになるという幸運にも恵まれました。それが、師が去ったあたりで違う方向に進み始めている気がしてきたのも事実です。管理のみで直接料理を作らないもどかしさもありましたが、何より先代の五十嵐総料理長と一緒に働けないのが寂しかった。五十嵐総料理長がいなくなってわかりましたが、真剣に怒ってくれる人のいない辛さ。そんな折に友人の誘いもあり、転職することにしたのでした。
無我夢中で全力で生きてきたから、やれることはやってきたから。去る時に特別感慨はなかった。と言うと少し格好をつけすぎているのかもしれません。
それから…
軽井沢1130を退職し、再就職してからの僕は迷走していました。古い友人から誘われ、近くの温泉地のホテルへ移動したものの、ここは全部で10数室のラグジュアリホテル。ファスティング(断食)のプランがメインで、食事のお客様はせいぜい1人2人です。スタッフも食事がメインとは思っておらず、唯一ある野菜だけのコース料理への思い入れは少ない。ラグジュアリとは言いながら、実際は細かいしきたりが決まりすぎていて、自分から新しくアイディアを出して変えていくわけではなく、肉料理のスペシャリストを自称する僕はかなりの変わり者扱い。気を取り直して野菜料理に集中しようにも、お客様がいない。立ち位置はシェフという立場ながら、役に立てなかった。ほとんど窓際みたいなものでした。野菜を丁寧に処理して、仕入れを回って、仕込みやその他のことにじっくり取り組んで時間をかけても、気分的にはかなり持て余してしまいます。野菜を突き詰めることで新しい野菜の表情をたくさん発見することができましたが、チームで一つの目標に向かって料理を作り、指揮することはすっかりなくなってしまいました。明らかにモチベーションが持たなくなっていました。
僕は迷いました。果たしてこれで良かったのか。
そんなある日に経営者に呼ばれて詰られました。「パート社員に聞いた、不真面目だと。もっと真剣に仕事に取り組め」と。理解しあえないんだなと思いました。どちらかが悪いわけではない。不真面目にやっているのではなく、仕事の共感ができる人がおらず、いつも一人で何か別の仕事をしていたので明らかに浮いていたのは事実です。そういわれても仕方のないことだったかも知れません。周りに料理人を理解してもらおうという姿勢には欠けていたかも知れません。お客様の反応は良かった分、そう言われて冷静ではいられませんでした。迷っていたものが、はっきりしました。僕は再就職に失敗したのです。そう認めることができました。
翌日、二か月後に退職する旨を経営者に伝えました。そうすると今までつっかえていたものがすっと消え、頭がすっきりしました。誰かや何かのせいにしていたけれど、そうではなかった。歯車がかみ合わなかったのだと思います。企業文化が違ったのだ、と。料理人を真剣に突き詰めたいと考える自分にとって、合わない環境であっただけです。すぐに求職開始。しかし、これがうまくいかなかった・・・。
11月下旬に退職し、会社の寮を出る予定の私達夫婦には家がありません。何しろ群馬県の嬬恋村に来た時から会社の寮にしか住んだことがないのです。家と仕事探しの同時進行となりました。家がなくてはどうにもならない。そう考えて不動産屋を回りました。それでも初日に家はすぐに見つかりました。嬬恋村からは外れますが、隣の北軽井沢地区に条件の良い広い家を借りることができました。キッチンが広い理想的な家。しかし、手入れがされていなかったので、両親と妻と修繕と清掃をしました。おかげで今では快適な家になっています。
仕事の面接は2件、3件と受けましたが、ことごとく失敗。履歴が悪いのではない、オーバースペックだと言われました。規模の大きなホテルの一番上に近いところにいた職歴が、今は逆に足かせになります。「もったいない(うちでは御しがたい)人材です。」何度もそう言われて、これからの活躍を祈られました。うちでなく、よそで頑張ってくださいと。
そうこうしているうちに退職日になってしまいました。普通に退勤するように何も言われず、何も言わず去って終わりです。でも次の仕事は決まっていない。貯えも余裕があるわけではない。季節はまもなく冬になろうとしていました。
でも落ち込むほどではありません。嬬恋村に来る直前の僕には何もなかったのです。自分の店を失い、従業員も家族も友人の大半も失い、お金も、そして自分の家も寝床もなかった。ネットカフェを転々とし、安心して眠ることもできませんでした。職なしとはいえ、今はそうではありません。なにより妻が隣にいます。福岡の両親も北軽井沢で引退生活をしているし、ともに苦労を積み上げた仲間たちもたくさんいます。ゆっくりと仕事を探しながら妻や両親、友人との時間を作ろうと思いました。庭仕事や家の掃除や修繕、洗車やドライブ。そして一日の終わりには家族や友人とそろっての食事。この時間がよかった。人生の中で年老いた両親と普通に暮らす時間はそうあるものではない、年齢を重ねた両親と愛妻に今は料理を作ろう。この時間を大事にしていよう。そう思いました。不安があるとはいえ、充実した日々が過ぎていきます。
予想もしない出来事が突然やってきます。頼んでいた就職エージェントからオファーが来ました。銀座に新規オープンするフランス料理店の総料理長に迎えたいとのことでした。再就職に難儀していた僕にとっては青天の霹靂です。銀座のレストランを仕切る料理長は西洋料理のシェフのなかでもとりわけ別格だというところがあります。日本経済の中心地のさらに中心にある華やかな繁華街。客として行くことだけでもステータスを感じていた伝統のあるフランス料理の聖地とも言える銀座で、レストランを仕切らないかとのオファーです。単身赴任に不安はありましたが、状況を選り好みできる立場にはありませんし、6年間一緒にいる部下が銀座についてきたいと言っていました。何より最高のオファーです。すぐにお願いし、二次面接まではうまくいきましたが、それから時間がかかりました。面接は通っているものの、開店日がはっきりしない状況です。
悶々とする日々を過ごしながらも、夕食だけは僕が作り、皆と楽しみます。一番食べたのはシンプルな焼きたてのバゲット。パンを買いに行くのは父親の仕事という家庭もフランスには多く、無職の大黒柱の僕も気分転換にパンをよく買いに出ました。キャベツがものすごく安い時期だったので、バーニャカウダとキャベツとパンの夕食はよく作りました。バーニャカウダはニンニクとアンチョビのたっぷり入ったイタリアのオイルフォンデュです。牛乳で煮たニンニクとアンチョビをすりつぶしてペーストにし、オイルをたっぷり足して火にかけます。その熱いディップに野菜やパンを浸して食べるのです。寒さが身に染みるころにこれは本当においしかった。立ち上る蒸気と香り、部屋にこもる楽しみができました。
生ハムを切って、テーブルセッティングをして、安いワインを開け、数本のバゲットとバーニャカウダを家族や友人たちと分け合って食べる夕食は、お金も手間もかかっていませんが、どんな高級料理にも負けない思い出となります。職なし、収入なしの身でもそんな日々に救われました。
銀座の話の進行中に、かつての同僚より連絡がありました。僕のことをよく知る同僚の営業マンが再就職先の老舗ホテルで料理人に困っており、厨房の立て直しのためにきてくれないかとオファーです。人材を一から集めて新しい厨房と料理スタイルを作って欲しいとの要望です。
再就職先に困り果てていた僕にとっていきなり湧いて出たチャンス。単身赴任で東京に行き、銀座で輝くか、同僚のオファーに応えて長野蓼科を選び、より組織管理のスキルを突き詰めていくか。こんな時代に就職先を選択するという贅沢ではありますが、北軽井沢の家をベースにどうしていくかも含め、果てしない迷いの世界が待っていました。
(続きます)
原田理(おさむ) フランス料理シェフ
■「嬬恋村のフランス料理」1 原田理(フランス料理シェフ)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201507250515326
■「嬬恋村のフランス料理」2 思い出のキャベツ料理 原田理(フランス料理シェフ)
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■「嬬恋村のフランス料理」3 ぼくが嬬恋に来た理由 原田理(フランス料理シェフ)
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■「嬬恋村のフランス料理」4 ほのぼのローストチキン 原田理(フランス料理シェフ)
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■「嬬恋村のフランス料理」5 衝撃的なフォワグラ 原田理(フランス料理シェフ)
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■「嬬恋村のフランス料理」6 デザートの喜び 原田理(フランス料理シェフ)
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■嬬恋村のフランス料理7 無限の可能性をもつパスタ 原田理(フランス料理シェフ)
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■嬬恋村のフランス料理8 深まる秋と美味しいナス 原田理(フランス料理シェフ)
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■「嬬恋村のフランス料理」9 煮込み料理で乗り越える嬬恋の長い冬 原田理(フランス料理シェフ)
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■「嬬恋村のフランス料理」10 冬のおもいで 原田理(フランス料理シェフ)
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■「嬬恋村のフランス料理」11 我らのサンドイッチ 原田理(フランス料理シェフ)
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■「嬬恋村のフランス料理」12 〜真冬のスープ〜 原田理(フランス料理シェフ)
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■「嬬恋村のフランス料理」13 〜高級レストランへの夢〜 原田理(フランス料理シェフ)
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■「嬬恋村のフランス料理」14 〜高級レストランへの夢 その2〜 原田理(フランス料理シェフ)
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■「嬬恋村のフランス料理」15 〜わが愛しのピエドポール〜 原田理(フランス料理シェフ)
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■「嬬恋村のフランス料理」16 〜我ら兄弟、フランス料理人〜 原田理(フランス料理シェフ)
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■「嬬恋村のフランス料理」17 〜会食の楽しみ〜 原田理(フランス料理シェフ)
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■「嬬恋村のフランス料理」18 〜 魚料理のもてなし 〜 原田理(フランス料理シェフ)
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■「嬬恋村のフランス料理」19 〜総料理長への手紙 〜 原田理(フランス料理シェフ)
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■「嬬恋村のフランス料理」20 〜五十嵐総料理長のフランス料理、そして帆船 〜 原田理(フランス料理シェフ)
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■「嬬恋村のフランス料理」21 コックコートへの思い 原田理(フランス料理シェフ)
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■「嬬恋村のフランス料理」22 原木ハモンセラーノで生ハム生活 原田理(フランス料理シェフ)
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■「嬬恋村のフランス料理」23 煮込み料理に寄り添う、冬のバターライス 原田理(フランス料理シェフ)
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■「嬬恋村のフランス料理」24 仲間たちのこと その 1 原田理(フランス料理シェフ)
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■「嬬恋村のフランス料理」25 仲間たちのこと その 2 原田理(フランス料理シェフ)
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