2020年05月09日09時03分掲載  無料記事
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「Recommencer」(もう一度・・・やり直しのための思索)のマチュー・ポット=ボンヌヴィルと国際哲学コレ―ジュ 

  フランスの哲学者、マチュー・ポット=ボンヌヴィル氏が書き下ろした「Recommencer」という本を翻訳刊行しました。邦題は「もう一度・・・やり直しのための思索」となっています。commencerが「始める」という動詞の単語ですから、その前にもう一度を示すreがついて、再開する、とか、やり直す、という意味を持ちます。著者のポット=ボンヌヴィル氏は哲学者はこれまでほとんど「やり直す」ことの意味については論じてこなかったと言います。哲学者はほとんど常に初めてやること=commencerに注力してきたのだ、と言います。Recommencerという問いの独創性というか、貴重さは、人間はしばしば何であれ一回目は失敗しがちなのであり、外国のことわざにも「初めて焼いたプリンは塊になる」ということにあります。何であれやってみると、それまで机上のプランではわからなかったことが様々に関係しあっていることがわかってきますし、その過程で様々な未知の要素も影響してきます。ですから、失敗と言わないまでも当初の目論見通りいかないことは多々あります。失敗してむしろ当たり前なので、大切なことはそこから、なのです。 
 
  こういう経験を踏まえると、「もう一度やり直す」ということの意味を考えてみることは初めてやることと同様に、あるいはむしろ、それ以上に今の時代に問われているのかもしれません。なぜなら、一度失敗して、途中までやっていた全部を捨てて、別の何かをまたやり始めるのだとしたら、失敗した際にうまく行っていたよい部分までどぶに捨ててしまうことになりえるからです。そして、失敗したらしばしば、昔ながらのやり方へと大きく後退してしまいがちです。この30年来、世界で政治がしばしば極端に振れて動いていることもこれと関係するテーマであると思います。しかし、やり直しは単に政治や社会のテーマだけではなく、人生のテーマでもあります。今日本の抱える問題は人生の中盤から後半にかけて、あまり明るい見通しが持てなくなっていることだと思います。寿命こそ延びても、正規の再就職の口はほとんどないか狭き門で、年金だけでは生きられず、ぼろぼろに使い捨てられて死んでいくのではないか、と恐れている人は増えていると思います。そうした構造の中で、個人個人も自分にこれから何ができるのだろうと模索している人が増えていると思われます。ですから、こうしたこともこのテーマの射程に入ると思っています。第二、第三の人生の構築です。 
 
  「Recommencer」という本で、マチュー・ポット=ボンヌヴィル氏は、もう一度やるにあたって、どのような難しさや失敗例があるのか、どのようなプレッシャーやリスクがあるのか、そしてもちろん、どのような意義があるのか、などなど、そういった事例を欧州の哲学者や芸術家、作家などの豊富なエピソードをひも解きながら綴っています。使っている言葉は平易なのですが、哲学ですから3秒でわかる、という具合には行きません。じっくり時間をかけて、何を言おうとしているのかを読者が自分なりに咀嚼することを求められる本です。本来、哲学とは自分で考えることであるはずで、ウィキペディアで答えを読むこととは無縁の営みなのです。ですから、今の情報環境に生きていると、すぐに理解できないと「わからない」=ダメだ、となりがちですが、そうではなくて哲学に関する限り、それが王道なのだ、と思った方がよいかと思います。うまく訳せたかどうかはわからないのですが、手元に置いて損はないと思います。いろんな人物が登場しますから、それぞれについて読者が自分なりに研究して、自分なりに答えを出す、そういう関りを求める本ではないでしょうか。松阪牛のような美味しくて柔らかい肉というよりもテキサス牛のような、じっくり噛んで味わう肉に例えられるでしょう。 
 
  マチュー・ポット=ボンヌヴィル氏は現在はパリのポンピドーセンターで映画や討論などの文化事業のディレクターをしていますが、2010年から2013年まで国際哲学コレ―ジュの議長をしていたと経歴にあります。筆者は哲学を専門にしている人間ではないので、それがいかなる組織なのかちょっとわからなかったんですが、パリに本部があり、半官半民の拠金で運営されながらも、国家の支配を受けない哲学者たちの自由な哲学と教育の活動を発展させるために1983年に作られた組織とされ、創設にあたって尽力したのはジャック・デリダたちだったとされます。日本でこれに詳しいのは自らそこに哲学者として参加している都立大学の西山雄二氏で「哲学への権利―国際哲学コレージュの軌跡」というドキュメンタリー映画の監督までしています。錚々たる哲学者が参加していることからも影響力のある活動をしていることがうかがえます。 
http://www.comp.tmu.ac.jp/nishiyama/droitphilo/droitphilo.html 
  「国際哲学コレージュは、政府の依頼を受けて、デリダがフランソワ・シャトレらとともに、1983年10月10日にパリのデカルト通りに創設した研究教育機関である。産業・研究、文部、文化の三大臣の後押しを受けてはいるが、基本的にはアソシエーション法に依拠して創立された(日本でいうところのNGOやNPO)。コレージュは、哲学のみならず、科学や芸術、文学、精神分析、政治などの諸領域の非階層的で非中心的な学術交流によって新しいタイプの哲学を可能にするという、当時としては画期的な組織だった」(西山雄二) 
 
  ここに書かれているように、哲学者だけのサークルで完結する、あるいは自閉するのではなく、開かれた哲学を志向し、他の分野の研究者たちと積極的な学術交流に注力したようです。「新しいタイプの哲学」ということが国際哲学コレ―ジュのテーマだとすると、興味深いです。マチュー・ポット=ボンヌヴィル氏も、もともとはミシェル・フーコーの研究者なのですが、映画にも造詣が深く、さらに文学やその他のジャンルにも通じていることも40代前半の若さで国際哲学コレ―ジュの議長に選出された理由かもしれません。それはどういうことかと言えば、哲学が象牙の塔にこもるのではなく、常に大衆との接点を持ち続けることの大切さを示しているように思えます。もう大学に文系はいらん、と言うような粗雑な教育行政論者の跋扈する日本との違いでしょう。しかし、フランスでも危機はあり、デリダは哲学教育の危機を感じて哲学者たちを動かしたのです。 
 
  知識を得る、ということがパソコンができてインターネットが交流して以後、大きく変ってきて、どんな情報でも3分で得られて当たり前、みたいな風潮がありますが、哲学はそういう簡単にすぐに知識を得る活動とは基本的に異なっていて、もっと時間を要するものです。時には20年、30年と1つの問いを問い続けることが必要です。だからこそ、今の時代に切り捨てられるリスクが高まっています。しかし、そうした風潮がリスクに弱い社会を作った原因にもなっています。「Recommencer」(もう一度・・・やり直しのための思索)は、こうした今のあり様を考え直すに、とてもよい手がかりを与えてくれる一冊です。 
 
 
村上良太 
 
 
■批評家モーリス・ナドーがロラン・バルトに切り込んだ対談「文学について」( sur la litterature) 
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=202005070122424 
 
■「Democratic Debacle 民主党の敗北」The defeat of Hillary Clinton was a consequence of a political crisis with roots extending back to 1964. ヒラリー・クリントンの敗北の根っこは1964年に遡る ジェローム・カラベル(社会学) 
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=202002290302266 


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