2020年05月18日15時06分掲載  無料記事
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コラム

コロナ、「新たな日常」と「欲しがりません勝つまでは」 大野和興

 コロナ緊急事態宣言が39県で解除された5月14日、安倍首相は記者会見で「新たな日常を取り戻す」と述べました。「新たな日常」っていったい何だろうと考えていたら、突然「欲しがりません、勝つまでは」という戦中標語が頭に浮かびました。戦時体制下のニッポンで、“銃後の国民”を戦争に総動員するための意識操作といえます。このお上の呼びかけに応え、生活の隅々から不要不急の「贅沢用品」が排除されていきました。送民統合のためのイデオロギー攻勢です。安倍首相が呼び掛ける「新たな日常」もまた、そのことを意識してのイデオロギーの押し付けにほかなりません。 
 
 為政者は新型コロナ対応を戦争に例えるのが好きです。安倍首相も5月14日の記者会見で、「新たな日常」と同時に「持久戦」であるとも国民に呼びかけています。安倍首相ばかりでなくどの国でもコロナ対ウを戦争に例えるんが好きです。そのことを反映しているのか、欧米や東アジアのコロナ抑え込み経験を観察しますと、最も効果があるのはどうやら「自由と権利を制限する」ことのようです。「自由と権利」という人類が積み上げてきた普遍的ともいえる価値を制限するには強権がいります。コロナの場合、それは国家権力として現れます。国家が強権をふるうに際して邪魔になるのは民主主義です。この三点セットがそろったとき、「コロナとの戦争」に勝てる、そんな構造が浮かび上がります。日本の官邸・自民党は憲法に非常事態条項を加え、この際強権で何事もやれる体制作るチャンスと見て、動き出しています。 
 
 さて、その次に来るのが「新たな日常」です。意味することは明確です。コロナ下で非常事態ということで行われた強権、権利と自由の制限、監視と密告、自粛といった行動様式を、長期戦という名のもとに、そのまま日常化していくということです。 
 人と人を切り離し接触を封じると同時に、感染者は隔離するということが、いまのところ最も有効な手立てであるコロナ対策によって現出している社会の延長線上に見えるのはディストピアにほかなりません。 
 
 人間は関係性の存在です。人と自然、人と人との関係性の中ではじめてヒトという生き物は人間になる。その関係性は精神と身体の両面を含んでいます。ATとITででオンライン会議を開いても、面と向かわなければつかめない相手の息づかいやあいまいな微笑が何を意味しているかなど分かりはしない。 
 人と人を切り離すことに意味を見出す社会にコミュニティは必要ありません。具r−バリゼーションの中で地域社会が壊され、家族が解体されてきました。そうして現出した“分断された個”をコロナ社会は分子レベルまで寸断していくでしょう。そこからはみ出した個は、自粛警察がよってたかって糾弾し、黙らせる。その先の「新たな日常」がどのような日常か。そこからはみ出す方策と手段をじっくり探りたいと思っています。 


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