2020年05月21日01時12分掲載  無料記事
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コラム

書店は不要不急の場なのだろうか・・・

  新型コロナウイルスによる外出自粛と営業の制限で近所の書店も公共図書館も閉鎖になってしまった。スーパーやコンビニには立ち寄れても書店にぶらっと入って本を手にすることができない。たまたま僕はこの時期に翻訳書を出版したのだけれど、本の売り上げ以上に、自分が日々本に出会う場がなくなってしまったことがとても寂しい。 
 
  書店が閉鎖されてしまったことに気がついたのは18世紀イタリアの喜劇作家、カルロ・ゴルドーニ作「二人の主人を一度にもつと」が行きつけの書店のコーナーに文庫本であった気がして買いに出かけたことだった。いつものことだが、ある本が買いたいと思うと、いてもたってもたまらなくなる。しかし出かけてみると、書店の入っている百貨店の中で、かろうじて開いているのは1階だけで書店の入っている上層階は全部閉鎖されていた。 
 
  ゴルドーニの戯曲は青天の霹靂的に突然読みたくなったわけではなかった。文化人類学者・山口昌男氏の「道化の民俗学」という本を読んでいると、イタリアのコンメーディア・デラルテの主人公アルレッキーノの話が冒頭に紹介されていて、山口氏自身の関心が僕に憑依し、あまりに面白く思われたために、何とかそのアルレッキーノという道化師が活躍する戯曲を読んでみたいと思ったのである。だが、感染症との闘いに不要不急の外出は控えて欲しい、という政府の要求は無視できないものがある。18世紀イタリアの喜劇の戯曲を買う、という行為は不要不急ではないかと問われると分が悪い。 
 
  しかし、本というものは一期一会の出会いのようにいつも感じる。本自体は世界に莫大に、海のようにある。だからその中である1冊の本を手に取りたい、と思ったとしたら、それはすごい希少な機会だと思う。僕が以前、ゴルドーニの戯曲を買うべきかどうか迷ったことがあったのは1990年頃のことで、30年前だ。あの時はこれほどの動機づけが僕の中になかったためつい買いそびれた。ハードカバーだった。もしあの日、ゴルドーニを買っていたからといって人生がどう変わったかはわからない。けれども、本というものは出会いが大切で、読みたいと思った瞬間をできるだけ大切にしたいといつも思う。それは多分、コンサートや舞台、映画も同様なのだろう。 
 
  山口昌男氏は「道化の民俗学」の中で「二人の主人を一度にもつと」(山口氏は本書では『二人の主持ちのアルレッキーノ』をタイトルにしている)に関して、演劇学者ヤン・コットの引用を行っている。これが興味をそそったのだった。 
 
 「召使とはいうものの、実は彼は誰にも仕えておらず、相手かまわず好きな所へ引きまわすのである。商人も恋人も侯爵も兵士も、すべて冷笑してかかる。彼にとっては、愛情も野心も権力も金も、すべて笑いの種なのだ。彼は主人よりも悪賢いようにしか見えないが、実はそれだけでなく、主人よりも知恵がすぐれているのである。世界が愚行にすぎないことを悟っている彼は、何ものにも縛られていない。」 
 「彼はわれわれの目の前で二人になり、三人になる。彼は変身の術を心得ているのだ。時間と空間の常の法則は彼には当てはまらないのだ。彼はあっという間に外見を変えるし、同時にいくつもの場所に現れることができる。彼は運動の鬼なのである」 
 
  派遣社員という形態の労働者が増えていることを考えれば、この劇の笑いはむしろ今が最もアクチュアルになっているのではないか、と思える。 
 
  インターネットでゴルドーニの翻訳書について調べてみると、確かに岩波文庫から2冊出ていた。だが、それは「珈琲店・恋人たち」と「抜目のない未亡人」であり、「二人の主人を一度にもつと」はもしかしたら収録されていないのかもしれない。だとすると、「二人の主人を一度にもつと」にこだわるなら、ハードカバーの「ゴルドーニ喜劇集」を手にする他ないのかもしれない。それはまず間違いなく、行きつけの書店の棚にはないだろう・・・。 
 
 出版元の名古屋大学出版会のサイトによると、「ゴルドーニ喜劇集」(2007 齊藤泰弘 訳)に収録されているのは「骨董狂いの家庭、あるいは嫁と姑/ コーヒー店/ 宿屋の女主人小さな広場 /恋人たち/ 田舎者たち/新しい家 /別荘狂い/キオッジャの喧嘩」の作品だった。価格は8000円である。タイトルを見る限り、「二人の主人を一度にもつと」は見当たらない。 
 
 一方、未来社からも1984年に「ゴルドーニ傑作喜劇集」が出ており、牧野文子訳である。多分、以前目にしたのはこっちだろう。「18世紀イタリアの国民的劇詩人ゴルドーニは、コメディア・デラルテの伝統を踏まえつつ、人間生活に潜む愚行を抉り出しては嗤い飛ばす。『コーヒー店』『扇』古典的名作を収録。」とサイトで説明されている。他にも収録されているのかどうかはよくわからない。しかし、僕の記憶では二人の主に使える召使の話は日本の翻訳書で見たような気がするのだ。他に日本で翻訳書があるのだろうか。それともこの中に収録されているのだろうか。 
 
  だんだん錯綜してきた。しかし、ゴルドーニの作品の中でどうしても「二人の主人を一度にもつと」にこだわるなら、まずはインターネットで未来社刊行の「ゴルドーニ傑作喜劇集」を取り寄せるのが一番、可能性としてはありそうだ。こうなったら不要不急以前に「お前も暇な奴だな」と誰かに言われそうだ。 
 
  そんな時、ふとameqlist 翻訳作品集成(Japanese Translation List)というサイトを偶然のぞいたら、ゴルドーニの「主人二人の召使」は牧野文子訳(1959)があるようだ。これは刊行が未来社となっている。でも、もしかしたら1984年の傑作喜劇集ではなく、1959年にこれだけ単発で訳されたのかもしれない。あと晶文社から田之倉稔訳で『ゴルドーニ劇場』の中に、「二人の主人を一度に持つと」と「ヴェネツィアのふたご」が収録されているらしい。僕の記憶の中のタイトルは「二人の主人を一度に持つと」だった気がするので、もしかしたら以前見たのは晶文社の本だった可能性が高くなった。出版は1983年である。 
 
  文化人類学者の山口昌男氏が「二人の主人を一度に持つと」に痛く刺激されたのは山口氏が当時、パリにやってきたイタリアのミラノのピッコロ・テアトルの公演を見て、そのアルレッキーノの演技に感動したからだ。演出は著名なジョルジョ・ストレーレルによるもので〜実際にアルレッキーノの演技は神業的に素晴らしかった〜一度本物を目にした山口氏はとりこになってしまったのである。そして、おそらくは「二人の主人を一度に持つと」においてアルレッキーノの肉体表現は、ストレーレルの演出の巧みさも手伝って、1つの頂点に達したのかもしれない。 
 
  最初はゴルドーニに関する作品事情がよくわからなかったが、18世紀の劇作家ゴルドーニの作品群の中で、「二人の主人を一度に持つと」が日本でおそらく最初期に翻訳されていることから、主力作品と言ってよいのだと思う。そして、皮肉にも初期に訳されたことが災いして、最近の翻訳集には収録されない結果にもなっているのかもしれない。これはもったいないことだ!「三文オペラ」の入っていないブレヒト作品集みたいなものである。これはまだ仮説に過ぎないが、もし本当なら「ゴルドーニの悲劇」と名付けておこう。 
 
 
・ameqlist 翻訳作品集成(Japanese Translation List)というサイト 
http://ameqlist.com/sfg/goldoni.htm 


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