2020年05月26日20時10分掲載
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教育
八ヶ岳山麓から(313) コロナ明け、公立学校はボロボロになる 阿部治平:もと高校教師
先日江澤隆輔氏の『先生も大変なんです』(岩波書店、2020・3)を読んだ。結論を一口で言えば、これは大学生に読まれれば読まれるほど、教員志願者は減るであろうという本である。
書かれている内容は、主に小中学校の教員のおかれている状況で、私が教員現役時代経験しなかった新しい困難な問題を含んではいるが、すでに類書が指摘している学校教育の課題とおおきな違いはない。学校の実態は依然「ブラック企業」そのもので、「危険・きつい・汚い」の3K職場である。
本書には、表紙に「案内文」があって、これだけ読めば本書の内容はだれでも大体の見当がつく。以下にそれを記す。いずれの文言も頭に「教員は」とか「学校は」とつけるとわかりやすい。
昼休みがない
登校時間は勤務開始前
毎年増えていく仕事
子どものためなら……という善意
時間と手間をかけたがる文化
前例踏襲が積み重なる
裏では大仕事のクラス替え・行事
タイムカードも残業代もない
実は高くない給料
労働時間は世界第一位
勤務時間後も電話対応
見せる指導案ばかりに時間がかかる
公務分掌が複雑化
部活動顧問の半分は素人、しかも無給
断れない部活動顧問
子どもも多忙化
授業づくりをもっと研究したい
子どもを管理したがる学校
変形労働時間制でより多忙化
それでもかけがえのない教員という仕事のやりがい
私が最も重大だと感じたのは、教員採用試験の志願者数に関する次の文言である。
「一般に『三倍を切ると人材確保が難しい』と言われている中、2019年度の採用試験では、なんと競争倍率が1倍台の自治体も出てきました。倍率がこの水準になると、選抜を乗り越えて教師になる、というプロセスが成立しにくくなり、教師は免許さえあれば誰でもなれる職業と化してしまう恐れがあります。教師の苦しい状況は、教員志望の人数、さらには将来にわたって教育の質にまで負の影響を及ぼしつつあるのです(ゴチックは原文のまま)」
「負の影響」とはなにか。教員志願者が採用数の3倍以下になると、力のないのがゴロゴロ入る。授業はいい加減になり、公立学校はボロボロになる。それがこの数年の変わらぬ全国的傾向だということである。
友人の教えるところでは、横浜市などの小学校では、倍率は10年以上前から1.0台〜2.0台になっている。この結果、能力不足から自信を無くし、1、2年以内の退職者が増加する。そして必要な採用者数が増え、また力のないのが加わるという悪循環が始まるのである。これはもう横浜に限らない。
もう40年近く前のことだが、これに似た状況があった。1980年代初め、大都市圏の自治体では中学高校の生徒数の増加にやや遅れて応じ、学級定員を水増ししプレハブ校舎の公立中学高校を増設した。教員の採用枠も急速に拡大した。教員採用試験は都道府県ごとに実施し、一定の点数以上のものから教育委員会が面接して、メガネにかなったものを採用するというやり方で、必ずしも点数の多いものから順に採用したのではなかった。
当時も優秀なものは中央官庁、一流企業に就職していった。その反面、大都市近郊県の教員志願者は易しい一次試験に合格すればたいていは採用された。私の高校での経験では、そのなかには以下のような学力、常識の疑わしい人物がいた。
腐敗して糸を引くにぎり飯を食い、腹痛を起こして突然休んだ。
カタカナがちゃんと書けない。黒板に書く(板書)「シ」と「ツ」、「ケ」と「ク」の区別がつかない。
生徒の前で教科書を正確に読めないものもいた。
生徒の住所の「大字」が読めず「だいじ」とやって、同僚を面食らわせた。
英語の発音記号がわからないものだから、板書の単語に終始カタカナを振っていた。
部活動に夢中で、授業は事前準備もなくほら吹きに終始した。
その部活動では、生徒をぶん殴るしか指導の方法を知らなかった。
進学校に配属され、教科指導能力の不足が露呈した教員が、生徒からゴミを投げつけられたのがいた――教員の学力は一流大学の入試問題をほぼ解ける程度で間に合うのだが。
また新規採用の教員が増えた学校には、古参兵のような中年教師が職場を支配し、学校に出入りする業者の利権を独り占めするような状況もあった。力のない若手教員の中には、それに疑問をもつことなく、中年教師の権威に直ちに服するものも少なくなかった。
どんな職場でも能力のさまざまな人がいる。それが健全な職場だと私は思う。だが学校の場合、上に掲げたような教師が3人なり4人なり束になったら、教員の個人的不祥事を含めて、授業と学校運営は大きな問題を抱えることになる。コロナ以前かなり大きな社会問題とされた「教員間のいじめ」もこの延長上にある。
そうでなくても、学校なり教室なりが抱える問題が教員集団の能力を超えた場合(こういう場合が多い)、どうしても「前例踏襲」にこだわり、必要以上に「子どもを管理したがる」のである。
さらに昔ながらなのは、本書でも指摘するように、教員自身の持つ「時間と手間をかけたがる文化」である。制度や規則、教育委員会からの要求以上に、教師自身で自分の生活を忙しくしている習慣である。
授業の準備や反省に手間をかけるのではない。授業以外の部活動や事務(雑務)で、短時間でできることでも、あるいは短時間で仕上げるべきことでも長時間一所懸命やっているという姿を見せたがり、それを周りも高く評価する悪しき文化である。
かつて民間研究団体の話合いのとき、スポーツ関係の部活動顧問で「1年365日一日たりとも指導を休んだことがない」人がいた。これでは生徒を年間数百時間いや千時間余縛り付けることになる。本人も教材研究がいい加減になる。ここまでは教委も保護者も要求していない。
「不登校の生徒をこの半年毎日家まで呼びに行った」というものもいた。「ひきこもり」という言葉がまだ登場する前だったが、すでにこの方法では問題を深刻化させる危険があるということが、専門家の間では常識になっていた。だが、これに忠告すると、専門家の意見を取り入れるよりも、「熱心にやっているものにケチをつけるな」という感情のほうが勝っていた。
小川洋氏が『なぜ公立高校はダメになったのか 教育崩壊の真実』(亜紀書房2000)で公立学校の危機に警鐘を鳴らしたのは、もう20年も前のことだが、問題はより深刻化しているように見える。
朝日新聞に、東京大学教授・教育社会学の本田由紀先生による本書の書評があった。本田先生は本書の概略を語ったのち、その末尾に「冷静な分析と親しみやすい語り口に導かれて、学校という独特な世界の内部を覗き見させてくれる書」と記している。ノーテンキな話である。
教育学者が学校の内部を覗き見しているときではない。時代は学校を「独特な世界」ではないものとしている。
現に教員志願者の中にかなり能力の低い連中がおり、それが合格採用されるという危機的状況がある。公立学校の教育水準は下り坂を転がりつつある。破綻をどこかで食い止めなければならない。新型コロナウイルス感染問題が一段落すれば学校が始まる。本田先生が教育社会学者であれば、教員採用試験への応募者が多くなるにはどうすればよいか、一言あってもよいではないか。せめて教員の労働時間の短縮と賃金引き上げの必要性を世間に訴えてもらいたいというのは無理な要求だろうか。(2020・05・12)
阿部治平:もと高校教師
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ちきゅう座から転載
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