2020年06月10日14時47分掲載
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文化
[核を詠う](306)吉田信雄歌集『思郷』から原子力詠を読む(1)「原発の地に帰り来て盂蘭盆の墓参をなせり防護服にて」 山崎芳彦
今回から吉田信雄歌集『思郷』(現代短歌社、2019年10月刊)を読ませていただく。筆者の読みによる「原子力詠」を抄出させていただくのだが、福島県大熊町に生まれ、四世代が睦まじく暮らしていた作者が福島第一原発の過酷事故による、『故郷喪失』(吉田さんの第一歌集名)の苦難とふるさとへの思い、家族の離散、親しい知友との別れ、避難地でのたやすくはない日々の現実のなかで詠ったこの歌集の作品から、言葉としての原発禍を表す歌句はなくとも、背景というには色濃く深刻な原発事故の影を消すことは、筆者にとって苦しみだし、作者の思いに沿わないことになるだろうと思いつつ、あえて「原子力詠」と括っての作品抄出を、吉田さんにお詫びせざるを得ない。なお、吉田さんの第一歌集『故郷喪失』(平成26年4月、現代短歌社刊)は本連載の(159,160)で読ませていただいた。その望郷の思いを読みながら、筆者は原発を基盤とする「原子力社会」からの脱出、原発依存の政治・経済体制の打破を強く思った。そして『思郷』の作品群でその思いを新たにしている。
吉田さんは歌集『思郷』の「あとがき」で、この作品集について次のように記している。
「福島原発の事故で故郷を逐われて以来九年が経とうとしている。事故の日は中通りの常葉町へ避難し、体育館や公民館で約一か月過ごした。その後、会津若松市に移動、四年半お世話になり、平成二十七年八月いわき市に移転した。その間九人だった家族も離散し、ともに百歳を越えた両親も平成二十七年に母親が、椀年三月父が他界した。そのため私の短歌は原発事故を背景にした家族詠の色合いが強いと思う。/今回勧められて第二歌集を編むことになった。期せずして平成二十五年三月急逝した私の歌の師佐藤祐禎さんへの挽歌から始まり父の他界を詠ううたで締めるという歌集になった。平成の世の終る区切りにもなり、老境にある私の自分史という役目も担ってくれている。(以下略)」
この歌集の「序」に、歌人・實藤恒子氏は行き届いた、懇切丁寧な吉田さんの歌集について、、歌人・吉田信雄について、多くの作品を抽きながら、述べている。その中から、特に筆者が感銘を受けた部分を引用させていただく。(抽かれた作品の多くをは省略させていただくことをお許しください。)
「吉田信雄の短歌の原点は、佐藤祐禎にある。/佐藤は福島の農民歌人で第一歌集『青白き光』により、原発の被災者として、その災害を短歌で訴え脚光を浴びた。『避難地に師は逝きましぬ柩なる穏(おだ)しきみ顔に花供へたり』(作品2首略)/佐藤は平成二十五年、避難地で亡くなったが、その挽歌である。短歌が好きで好きで堪らず、ざっくばらんで、懐の深い佐藤を指導者として集まった人達が、大勢居たであろうことが容易に想像できる歌群で、その最も熱心なのが吉田であった。佐藤が所属した『新アララギ』発足の平成十年に、丁度退職した吉田が、即入会し、計らずも同じ境涯で、原発禍を力強く詠み継いで現在に至っている。」
「『原発禍は大家族をも離散させ孫らは遠く転校して逝く』(作品5首略)
四世代で平和に住んでいた大家族を原発禍が一瞬で潰滅させてしまった。偶然避難地で出会ったかつての生徒は、除染の仕事を言葉少なに語ったという。原発禍で追われた故郷は、五年余りで田畑は原野となり、みずからの狭心症もこの年に発症している。今は八十路になり病の危うさもあるが、その運命を受け入れて確かに生きてゆく決意を新たにする。」
「『土地代と領収書を書く人とゐてふるさとをまさにわれ捨てむとす』(作品7首略)/売り払った家や屋敷は、核廃棄物の貯蔵所となり汚染水が地に海に流れ込んでゆく。四十二年教壇に立った作者の生徒たちは社会人となって、老齢の作者に恩返しする立場になっている。おそらく作者指導の隔月の歌会も避難地から集まって来て諸々の情報交換の場ともなって話は尽きることがない。一方ではひたすら短歌の勉強に専念している。」
實藤氏の序文はさらに吉田氏を描出して、短歌と短歌人の生の歴史を語ってやまないが、ここまでにとどめる。なお、第一歌集の『故郷喪失』で實藤氏が丁寧、詳細な序文を書いていたのを思い起こす。
この歌集を読むにあたって、筆者は吉田さんのご好意と、ありがたい励ましをいただき、電話で少しだがお話しすることができた。作品にふさわしい、物静かで、しかし力のある声をお聞きすることができたのは、うれしいことだった。作品を読んでいきたい。
▼佐藤祐禎さん(抄)
写し絵に虚空を見つむるうたの師の視線の先はかの日の虹か
避難地に師は逝きましぬ柩なる穏(おだ)しきみ顔に花供へたり
師を悼む弔辞を捧ぐそれぞれの避難の地より集ひし友と
収骨室に変はり果てたる師に対ひ箸もて友と白きを拾ふ
「先生」と呼ばるるを嫌ひ飄飄と「祐禎さん」にて師は逝き給ふ
▼枇杷の実(抄)
仮住みの二年(ふたとせ)過ぎたり原発の禍(まが)に追はれて他郷に生くも
原発禍は大家族をも離散させ孫らは遠く転校してゆく
日暮れにはひときは恋ほしふるさとに枇杷の実すで熟れゐるらむか
荒廃のすすみゆく町禽獣の恣(ほしいまま)なる地にならむとす
ひと住まぬわが家は荒れて残されし孫らの自転車いちやうに伏す
放射能の満ちゐるわが家の生垣に今年も咲くらむやしほつつじは
▼父と母(抄)
ははそはの母ちちのみの父ともに震災生き抜き百歳を越ゆ
戦争を震災をも耐へ百余歳の父母弛(たゆ)まざる老境と言はむ
老い四人(よたり)の借り上げ住宅に孫ら来てさやさや動く澱みし空気は
おほかたは炬燵にまどろむたらちねの百三歳の生頽(くづほ)るるなし
▼空薬莢(抄)
原発の敷地はかつて飛行場二枚羽根機のあまた並びき
二日間の空襲ありて飛行場は全滅したり終戦近き日
眼瞑ればグラマンの黒き機影見え昭和の滓(おり)はいまだわがうち
▼避難者(抄)
のがれ来し街に売らるる蕨見つ妻は恋ほしむ郷の山かひ
仮宿の憂ひもあらむ血圧の高き妻なり避難も三年(みとせ)
避難者はおのもおのもに悩み秘め落ち着く先を模索してをり
背に負へる責務は重きか半世紀を生きたるわが子に白髪の目立つ
停泊地を求め筏に身を委ねただ流れゆく避難者われら
窓を打つ強き風ありふるさとの人無き地をも吹きゐるらむか
仮宿の壁に貼られし写し絵に避難の年月思ふたまゆら
避難地に同郷の会あり黙祷し怒り静かに広ごりてゆく
▼トンネル(抄)
避難地に三年(みとせ)を迎へ購(あがな)ひし刺身を抱へてひとり街ゆく
思ふやうにこの世はいかぬ避難地のふるき社(やしろ)に柏手を打つ
トンネルをわが抜けんとす冬空の消えてゐさうな予感に満ちて
▼泡立草(抄)
ふるさとを逐(お)はれしままに三年過ぐ黄昏はけふも盆地を染めて
ふるさとに地震(なゐ)あり無人のわが家は軋みてゐむか乾きし音に
ふるさとの地形に記(しる)す線量を見てをり天気予報のごとく
一時帰宅のわれを阻むか泡立草高々と生ふる門口に立つ
泡立草は丈高く生ふ原発の地を常闇(とこやみ)に閉ざさむとして
彼日よりはびこる鼠にわが家を明け渡したり虚空を仰ぐ
頭から靴の先まで覆はれて忿(いか)りはめぐる防護服のなか
原発禍に壊れし町は夏の日に光りてゐたり野の花揺れて
▼会津盆地(抄)
原発に逐はれて会津に移り住み里人の情けに歴史に会ひき
喜寿われの余命いくばくいままさに終の棲み家を捜さねばならず
ふるさとに帰るすべなく三年(みとせ)過ぐ避難地会津に喜寿を迎へて
避難せし日より安らぐひまもなくけふ御薬園に牡丹を見たり
▼桜(抄)
草あをむ丘の傾(なだ)りに端然と滝桜は立つ花の盛りに (三春滝桜)
特養ホームに父入りたり百一歳の新たな門出とみづから言ひて
デイサービスをサボる母なり百歳を越ゆればどうぞお気に召すまま
ふるさとの妻の知り人訪ね来て震災前を語りて尽きず
▼一時帰宅(抄)
一時帰宅の家路を急ぐ三年余を経しも路面にありありと地割れ
許可証に入りゆくふるさと信号の点滅のみがわれを迎へぬ
常磐線はかの日消えたり雑草(あらくさ)に駅舎も鉄路も埋もれうもれて
一時帰宅にわが生ひ立ちし家めぐり原野となりゆく兆候を見つ
三年余も鋏入れずに過ぎ来たる橡(とち)の木の矜持(きょうじ)いまは茫茫
原発の地に帰り来て盂蘭盆の墓参をなせり防護服にて
虚しきは一時帰宅よ大祖(おほおや)の位牌をけふは持ち帰りたり
一時帰宅の部屋に時計は三年余時を刻めりひと無き部屋に
一時帰宅を終へて虚しき道すがら積乱雲は午後の日に照る
次回も吉田信雄歌集『思郷』を読む。 (つづく)
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