2020年06月19日11時10分掲載  無料記事
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コラム

安倍時代の終わりをメディアの国民支配の終焉へ  〜安倍政権は「メディア政権」だった〜

  安倍時代が終わりを見せている。今まで2014年から何度か安倍政権には危機があったが、支持率の回復によって息を吹き返してきた。その理由はメディアが安倍首相と仲間だったことだ。NHKでは会長や経営委員長などトップを通じて支配した。民放や新聞では国や自治体あるいは公的機関の広告宣伝活動や補助金、さらには自民党をクライアントとする広告代理店・電通がスポンサー企業を束ねていることから、反自民党的な空気の番組や記事は放送局や新聞社の幹部たちの政治的忖度で削られることになったのではなかろうか。今後、これらの事情がより詳細に検証されることが必要だ。というのも、安倍政権は一言で言えば「メディア政権」だったからだ。 
 
  2013年のアベノミクス以来、メディアの多くは安倍政権の言説に批判をあまり加えず、賞賛するような報道を繰り返してきた。たとえ批判したとしても、バランスを取って安倍政権を賞賛する記事を傍らに付け加えるのが常だった。それによって自民党は選挙で連戦連勝することができた。冷静にこの7年を振り返れば、新聞の見出しや紙面はまったく違ったものであってもおかしくなかった。「なんでこの見出しなんだろう?」と思うことがしばしばだった。放送もそうである。どういう風にまとめるか、という編集方針次第で180度違ったコンテンツが作り出されうるのだ。 
 
  <安倍政権=メディア政権>の起源は、2009年に発足した民主党政権が大手メディアが支配する記者クラブ制度を緩和し、フリーランスのジャーナリストにも記者会見を解放しようとしたことに遡る。あの頃、インターネットを使ったネット版の「朝まで生テレビ」的な試行錯誤が行われ、ネットでも討論番組はできるんだ、ということがわかってきた。このことは大手メディアの経営を預かる幹部たちにとって大きな脅威と映ったはずだ。その意味で安倍首相の「日本を取り戻す」というスローガンは大手メディアにとっては、記者クラブを通して大手メディアの覇権を取り戻すことでもあったのではなかろうか。安倍首相と会食できる、ということはルイ14世の宮廷に出入りできる特権貴族と同じ意味を持った。 
 
  しかし、この構図は森友・加計疑惑、そして桜を見る会などの疑惑で大きく変っていった。大手メディアも活躍したが、布施祐仁氏や菅野完氏などフリーのジャーナリストの活躍もまた目立った。安倍政権の腐敗度が限界に達し、三権分立まで脅かされ始めたことから、ついに既存のシステムによるバックラッシュが始まり、その結果、メディア政権それ自体の虚構性までが剥がれ落ちることになった。安倍首相の記者会見の異常さやメディアを支配してきた電通の事業への疑惑である。安倍首相に近い思想性の人物をトップにいただくNHK経営委員会が番組に圧力をかけてきた実態も暴露された。さらに「国会パブリックビューイング」によって国会における与党・自民党議員や安倍首相らの傲慢な実態がインターネットで伝わり、民放や新聞などマスメディアがこうした市民メディアを後追いする、という倒錯現象まで始まった。野党の国会議員とネットメディアがツイッターなどを通してダイレクトに国会や各地の実情を伝え、そのコンテンツの方が新聞やニュースよりも第一報として重宝されるという事態にまで至っている。作家の盛田隆二氏のような情報の目利きたちがメディア情報の整理をしていたこともこれまでになかった現象だった。メディア政権であったがゆえに、メディアで真実がさらされたら一気に崩壊するのは必然である。 
 
  これらを通して、大手メディアの内部にも今の報道のあり様に疑問を抱いている真摯な記者やプロデューサーたちが少なからず存在している姿が明確に見えてきた。その端緒は日本マスコミ文化情報労組会議(MIC)による抗議集会だった。大手メディアの中にも地方新聞にも今の報道のあり方あるいは報道に対する政府の統制がこれでよいと思っていない人々の姿が見えるようになったことは報道に携わる人々を勇気づけたのである。大手メディアは忖度せず、本来の仕事をすれば、現実を正確かつ多角的に分析して伝えられるはずである。 
 
  とはいえ、側近の2議員の逮捕をめぐる安倍首相の記者会見でもメディア記者の質問が生ぬるい、という声が多数出ている。これは当初に示したように<安倍政権=メディア政権>だったことで、メディア企業の幹部たちが、その宴に参画した人々であったことだろう。それらの人々は責任の追及から逃れるべく最大限、自社の組織内で力を行使するはずだ。そうなればメディア内部における自浄が必ず阻害されるだろう。それは戦後、東京裁判ではなく、日本人自身の責任追及が曖昧だったのと同じ形で、誰も責任を問われることがないままに終息するかもしれない。そして、いつしか次の政治実力者の宴に詣でることになるかもしれない。もう二度と過ちを繰り返さないためにはマスメディアの内部の変化が求められている。それができるかできないか、もはや検察と安倍政権の闘いではなく、メディア内部における闘いと言えるだろう。メディアが民主主義にとって最大の脅威となりうることが、傷ついた日本の7年間の最大の教訓となるだろう。 
 
 
武者小路龍児 


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