2020年07月14日13時41分掲載
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国際
八ヶ岳山麓から(317) 中印国境紛争が示唆するもの 阿部治平:もと高校教師
6月18日AFP通信は、インド軍の発表によるとして、6月15日に標高約4500メートルのヒマラヤ山中で、インド軍と中国軍の間で数百人の衝突が発生し、インド側には少なくとも20人の死者が出たと伝えている。中国政府はこの衝突による死傷者数を発表していないが、インドの報道によると中国軍にも43人の死傷者が出ており、1967年以来最悪の衝突となった。今回は協定によって武器使用を控えているから、犠牲者は石をぶつけられたり、棒で殴られたり、尾根から岩や川に突き落とされたりで命を落したという。
インドと中国は、いずれも衝突後に現地から部隊を撤退させたと公言しているが、中国軍は衝突地点ガルワン渓谷の出入り口にある数平方キロの領域を確保し続けているという。
衝突した地点をAFPはヒマラヤ山中と伝えているが、カラコルム山脈の間違いである。インドからいえばカシミールのラダク地区ショク川上流、チベットからいうとガリ地区アクサイチンのガルワン渓谷である。
中印国境はこの数年緊張状態にある(図参照)。
2016年にはブータンからビルマ(ミャンマー)北部に連なるアルナチャル・プラデシュ(NEFA)で衝突があった。2017年6月にはブータン西部ドクラム高原で中国がブータン国境地帯を自国領として道路を建設したため、同年8月末まで中印両軍が断続的に衝突した。2020年5月5日カシミールのラダク地区アクサイチンのパンゴン・ツォ(湖)近くで小規模の衝突が発生した。5月9日にはシッキムでも殴り合いがあった。今回の衝突はその続きである。
中印両国は、国境紛争での武器使用を控える協定をしており、大規模戦闘にはなっていない。両軍とも兵員を増強していたが、7月6日双方の軍を撤収することで合意したという(読売新聞2020・07・08)。衝突するたび撤収をいうが、対峙状況は変わらない。だが両国とも本格的戦争をやるゆとりはない。特に中国は、とげとげしい対外関係が多すぎ、対処しきれないからだ。
図.中印国境紛争図(googlemapsより作成)
中印国境紛争は、そもそも1962年の大規模国境戦争に始まる。日本の中学高校で使われている教科書用地図に中印国境の未確定地域として二重に破線が引かれているところがそれである。
明治維新3年前の1865年、イギリス・インド帝国測量部は、チベット北西部アクサイチンをカシミール王国領とした。インドはこれを継承してこの地区を自国領だという。しかしアクサイチンはカラコルムの東にあるからインド領というには無理があるうえ、もともとこの地域には伝統的な交易路があり、夏はチベット牧民の放牧地であった。さらに新疆・チベット道路があって中国はここを譲るわけにはいかない。
一方1914年、イギリス・インド帝国外交官マクマホンは、インド東北部のブータンからビルマまでのアッサム・ヒマラヤの稜線を国境として描き、ヒマラヤ南麓(アルナチャル・プラデシュ)をインド領としてラサ政府に承認を要求した。だが、ここに住むチベット系民族のモンパ(人)は仏教徒であって、ダライ・ラマの権威に服しラサ政府に貢納していた。ラサ政府支配地域を自国領だとする中国の論理からすれば、ヒマラヤ南麓のかなりの部分は中国領である。中国は中華民国時代から、断固としてマクマホン・ラインを拒否してきた。
1950年代後半から中ソ対立が深刻になり、国境紛争ではソ連はインドの味方をした。ネルー首相はそれでも心細かったのか、中立政策を捨ててアメリカにすり寄った。1959年にはダライ・ラマ十四世がインドに亡命したから中印国境はさらに緊張した。中国は米ソ両国を敵側に回して孤立した。
そこで中国は周辺国との国境画定を急いだ。1960年1月にビルマに大きく譲って、ほぼマクマホン・ラインを認めた国境を画定し、3月にはネパールとの国境を画定した。おくれて63年にはモンゴル、パキスタン、アフガニスタンと国境協定を結んだ。
62年の国境戦争では周到に準備した中国軍は、兵員・兵器・食料の輸送も兵士の高地順化もままならぬインド軍に決定的な打撃を与えた。だが中国軍は戦闘開始から1ヶ月後に突然侵攻を停止し、自らが国境とする地点から20キロ手前まで「なぞの撤退」をした。戦争の結果アクサイチンは中国が実効支配し、アルナチャルはインドが支配することになった。
もし海峡や川や山脈といった自然の障壁を国境と認めるならば、中印国境は安定平穏のはずである。ところが国境の画定には、まず地図上で境界がどこを通るかについての合意すなわち「机上画定」がなされなければならない。その後現地で共同の「実地画定」が行われるべきであるが、中印国境はこうした正式な画定を行うまでには至っていない。実効支配線はしばしば双方の主張が食違い、衝突は起こそうと思えばいつでも起せる状態にある。中国はこれを変える気はない。
62年当時は両国とも経済は貧弱で、武器も時代遅れのものであったが、いまや中国もインドもアメリカ・ロシアに次ぐ世界3位、4位の軍事大国である。インドは屈辱的な敗北から教訓を学び、数十年後の今日、国境警備隊(ITBP)はヘリコプター・戦闘機はもちろん高性能のミサイルを持つ本格的軍隊になっており、もはや単なる国境警備隊ではない。
中国も負けず劣らずで、インド側から侵攻があった場合はミサイル部隊を主力に空軍・ロケット軍の支援を受けるとしている。中印両国の実効支配線に沿った監視所、基地はともに最新鋭兵器を装備している。
中印両国は建国以来、民族主義的傾向の強い国家である。権力集団内部で矛盾が激しくなり指導者の地位が動揺すれば、国内では排外主義をあおる一方で外交は強硬姿勢に出る。
中国の現政権もこの傾向の例外ではない。経済の停滞(「新常態」)や拡張政策、コロナ禍によって習近平主席は政権内部で苦境にあると見られる。南シナ海紛争に関する国際司法裁判所の判決で国際法をまったく無視して強硬策に出たのも、香港問題を解決するのに最も極端な手を打ったのも、政権基盤のゆらぎを反映している。次は台湾かもしれない。
2010年以来、中国は「東シナ海は中国の核心的利益に属する」としている。言葉の上では、尖閣は中印国境以上の扱いだ。中印国境紛争は、香港・台湾・南シナ海・尖閣問題とひとつづきのものとみるべきである。中国が次にどう出るかを検討するためにも、ヒマラヤ・カラコルム山中の相次ぐ衝突を「偶発的事件」だと見て軽視するようなことがあってはならないと思う。
このところ中国艦船が尖閣領海を遊弋する頻度は増えている。そのうちに潜水艦が常時領海に入り込むとか、1978年4月のように多数の武装漁船が領海侵犯を繰り返すとか、日本漁船が拿捕されるとかいった「偶発的事件」がいつ起きるかわからない。ことと次第では尖閣に上陸占領し、そのうえで防空識別圏設定もありうる。
もしも尖閣占領が現実のものとなったとき、わが革新勢力は断固反撃せよと主張するのか、なんらかの妥協を模索するのか、尖閣放棄もやむをえないというのか。どのような政策が日本にとって最良か。私は中国との平和共存を望むが、いざというとき慌てふためかないように、いまから議論を重ねて準備することが必要だと思う。(つづく。2020・07・09)
阿部治平:もと高校教師
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