2020年08月19日16時34分掲載
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コラム
在日コリアンの映画人との交流が僕の国際交流の原点
1995年は戦後50周年という節目の年でしたが、当時、僕は映画の助監督の仕事を通して知り合った在日コリアンの映画人に招聘されて「解放50周年」記念式典の記録動画撮影のアルバイトで大阪に一時帰省しました。僕の助監督の初仕事は大阪在住の監督・金秀吉さんの「あーす」という映画だったのですが、映画のスタッフは日本人、在日韓国人、在日朝鮮人で、2か月の撮影期間は空いていた相撲部屋での合宿でした。ですから、在日の人々と寝食をともにして働き、食い、酒を飲む毎日でした。僕にとってはそれまで在日の人々と交流することは心理的に難しいところがありました。過去の植民地支配の歴史や日本における差別の歴史を意識すると、自由になれなくなってしまうところがあります。
1980年代に監督デビューした在日コリアンの金秀吉さんたちは韓国が軍事独裁政権から抜け出そうとしており、ソウル五輪も実現した潮流を受け、日本においても新しい時代を拓くんだ、というやる気に満ちていたと思います。そうした充実感のあふれる在日コリアンの映画人とその時代に交流できたことは僕にとっては心の財産となっています。日本人にとって歴史をめぐる難しさのある在日コリアンの人々と交流できたら、アメリカ人であれ、フランス人であれ、そんなに交流することは難しくないのです。外国で何度も取材の仕事をしてきましたが、「あーす」という映画の仕事を経たことが一番自信になっているのではないかと思います。
話を戻しますと、大阪での解放50周年の記念式典の撮影も終わり、その夜、打ち上げが行われ、2次会ではナイトクラブのような店に入ったのですが、その時、テーブルがいくつかに分かれて、僕は一人、知らない人ばかりのテーブルにたまたまつくことになってしまいました。そのテーブルではホステスさんを含め、人々の会話はずっと韓国語だったので、韓国語の話せない僕は孤立してしまい、一人寂しくビールを飲んでいました。そんな時、遠くのテーブルから金秀吉さんや、カメラマンの金徳哲さんらが僕を手招きしているではありませんか。僕の寂しさを理解した在日の映画人たちが「村上君、こっち来いよ」と救いの手を差し伸べてくれたのです。それがとても嬉しかったのです。この時のことを多分僕は一生忘れないでしょう。
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