2020年09月02日10時43分掲載  無料記事
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欧州

イタリア現代史ミステリー 第一弾「イラリア・アルピの死」(その2)〜チャオ!イタリア通信

(前回記事) 
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=202008300217440 
→(イタリア国営放送局記者のイラリア・アルピの死から26年。彼女はなぜ死ななければなからなかったのか。事件の経過を振り返る) 
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 ここまで事件の経過を振り返ってみて、どうだろうか。普通の殺人事件でも、現場を検証することは重要なことである。ましてや、遺体の検証はどうやって殺されたのかを理解するためには欠かせないものである。いくら混乱状態だったとしても、現場近くには警察機構やイタリア大使館があり、まだ大使が滞在していたのにもかかわらず、誰も来なかったというのはあまりにも不手際すぎないだろうか。しかも、ミランの遺体は事件三日後には早々と埋葬までされている。 
 
 次に、二人の所有物を見てみよう。二人が滞在先としていたホテル「Sahati」には、スーツケースが置かれていた。イタリア人ジャーナリストとスイスのテレビ局記者が、二人の部屋を撮影したビデオがある。二人の部屋は、ものすごく散らかっていた。イラリアの所有物は、5つのノート、カメラ、電話番号を書いたメモ、ラジオ局の番号を書いた紙一枚、死亡の際シャツの胸ポケットに入っていたメモ数枚である。ミランの所有物は、ビデオカセットテープ20本ほどとカセットを入れるカバンである。これらの物は、一つのリュックに入れられ、イラリアとミランの遺体と共にイタリアに運ばれる飛行機の機長に届けられた。そして、二人の死亡証明書(「ガリバルディ」の軍医によるものとアメリカ軍の遺体安置所の医者による死亡報告書も含む)と私物は封のできる袋に入れられソマリアに来たライ放送局長に届けられる。しかし、この封をした袋はそのままイタリアに運ばれた訳ではなかった。いったんエジプトのルクソールに送られてから、イタリアに到着した。その間、二人の物がすべてイタリアに到着したわけではなかった。紛失したものは、イラリアのノートが3冊、ミランのカセットが6本、アメリカ軍による死亡報告書、イラリアの死亡証明書、「ガリバルディ」で撮った二人の遺体の写真、ライ2によって撮影されたビデオ(二人の遺体が「ガリバルディ」に運ばれてからローマに到着するまでを撮影)であった。また、されていた封が開けられていたりするなど、二人のスーツケースの中は荒らされていた。 
 
 二人が滞在したホテルの部屋が散らかっていたということ、イラリアのノートやミランのカセットが紛失しているという事実から、二人が何を取材していたのかを知る者がいたのではないかと推測できる。二人がホテル「Sahati」に滞在したのは、ほんの数時間である。自分の荷物を解き、仕事先や家族に電話する。それがお昼ごろ。その後、すぐに取材へと向かい、その1時間後ぐらいには事件は起きているのだ。 そして、謎はなぜイラリアは危険を冒してまで、ホテル「Amana」に行かなければならなかったのか。ホテル「Sahati」にいたイラリアに電話がかかってきて、ホテル「Amana」に向かったという証言があるように、誰かがイラリアにホテル「Amana」に行くように呼び出したことは確実である。しかし、イラリアとミランがホテル「Amana」にいたのはほんの数分である。 
 
 その後、ローマの検察と共に国会にも調査委員会が設置され、捜査が行われる。捜査の中で、様々な証言が得られるが、そこから事件のなりゆきを再構築するのは非常に難しい。人の記憶に頼る証言は矛盾することが当然というのは理解できるが、これほどまでに矛盾が激しいのも珍しいのではないであろうか。この事件の性格を決定的にする点−イラリアとミランは狙われて殺害されたのか、それともソマリアという無法状態の国で事故に遭って死んだのか−において大きな矛盾をはらんでいる。 
 
(次回に続く) 


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