2020年09月19日23時02分掲載  無料記事
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エリック・ゼムール著「女になりたがる男たち」

  エリック・ゼムール(※)と言えばフランスメディアではムスリムに対して排外主義的な論客として知られていますが、この新潮新書の「女になりたがる男たち」では女性化するフランスの男性ひいては社会を批判的に語っています。フェミニストたちに男性が洗脳され、古き良き男たちの世界が没落しつつある、と注意を喚起しているのです。筆者はエリック・ゼムールは、本当に排外主義なのか、それともフランスのメディアで食っていくために排外主義的なポジションから面白おかしく風俗を語り、進歩派を皮肉る芸風なのか、判断しがたいところがあると思っています。実際、ゼムールには軽さがあって、殺意すら感じさせるような威圧感を持って話したことはありません。ですから、フランスのメディアも安心して、左翼あるいは進歩的な文化人や政治家をトークショーで特集する時はゼムールをスタジオでかませて、話に陰影をつけることをしてきました。 
 
  翻訳者の夏目幸子さんはゼムールの論旨に賛成と言うわけではないが、ゼムールの批判が国境を越えて有効性があると判断したから翻訳したという意味のことを訳者のあとがきで書いています。私は特段フェミニズムの立場ではない、そして男性である、という属性をもとに本書を読んでみると、確かにある種の面白さとか、爽快感が感じられます。しかし、同時に、話がすらすら流れすぎて、「えっ、待てよ」という風に感じることがよくあるのです。 
 
  ゼムールがかつてはフランスの政治もマッチョ文化だったというようなことを語る時に、クロード・ソーテ監督の「ヴァンサン、フランソワ、ポールと仲間たち」みたいな男同士の友情をテーマにした映画をノスタルジックに挙げています。でも、こうした映画的世界がなくなっていくのはフェミニズムに起因する、というよりも男同士の友情が成立しえないほど労働環境や社会がネオリベラル化したからだという方がむしろ当たっているのではないでしょうか。会社のリストラで次に誰が切られるか、みたいな世界ではゼムールが言っているような男性の牧歌的世界は〜一部の例外は別として〜ほぼ終わったのではないかと思います。 
 
  さらに1990年代以後は可処分所得が減って多くの男たちは小遣いが少なくなり、昔のように豪快に遊ぶゆとりもなくなっているのです。私は友情には遊びが必要で、遊ぶためには先立つものが必要だと思います。そしてゼムールがよしとするように、できるだけ多くの女性と恋愛しようと思ったら、それがたとえどういうつきあいであれ、やはり金がないと難しいのではないでしょうか。最近、貧乏になって移民からも軽蔑される「プチ白人」という言葉があると聞きますが、プチ白人化の影響がゼムールの言っている現象に深く関係していると思えるのです。 
 
  ですので、筆者は適度な潤滑油が社会を流れていれば、男たちの友情の世界、フェミニズム、恋愛とセックスの文化は二律背反的なものではなく、十分に併存できるのではないかと思っています。そして、もしそれらが今後も抑圧され続けるのであれば社会の構造が変容して、それを可能にするようになるかもしれないとすら思っています。 
 
 
※Eric Zemmour - On n’est pas couche 17 mars 2012 
エリック・ゼムールがよく登場する番組で、ゼムールがゲスト出演の回(2012年) 
https://www.youtube.com/watch?v=tf3LPAXXEsU 


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