2020年10月01日05時09分掲載  無料記事
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ジャック・ベッケル監督「肉体の冠」(Casque d'or , 1952)

   ジャック・ベッケル監督(1906-1960)と言えば「現金に手を出すな」や「穴」など、ギャングや犯罪がらみの映画が得意な職人的監督として知られており、1952年に公開された「肉体の冠」もそうした系譜の映画です。主演は「嘆きのテレーズ」のテレーズ役など、恋人を地獄に突き落としてしまうファム・ファタール(運命の女)役で定評のあるシモーヌ・シニョレと、彼女に愛されたばかりにやっぱり悲痛な死を迎えるセルジュ・レジアニです。原題の「金のヘルメット」(Casque d'or)が邦題では「肉体の冠」と改変されていますが、「金のヘルメット」とはシニョレが金髪で、「金のヘルメット」というニックネームのついた娼婦を彼女は演じています。 
 
  この「肉体の冠」はいろんな意味で、筆者に新鮮な印象を与えるものでした。まず、ギャング映画と言うと、都会のジャングルみたいな摩天楼の風景が浮かびがちですが、この映画は地方を舞台にしていることです。冒頭のカットは河に数隻の小舟を浮かばせて遊んでいる男女のシーンでした。まるで印象派の絵画の1コマのようです。そして、この映画では地方の田園風景(あるいは19世紀か20世紀初頭のパリの郊外かもしれません)が見事に描かれており、それがこの映画が悲劇ながら伸び伸びした明るい印象を与えているのです。ベッケルの略歴をインターネットで調べてみると、ジャン・ルノワール監督の助監督をしていたとあるではありませんか。印象派の大物オーギュスト・ルノワールの息子で、ジャン・ルノワールも田園など屋外の撮影が得意です。しかも、ルノワールには、「肉体の冠」で出てきた河遊びをモチーフにした短編映画「ピクニック」(1936)もあります。屋外でのロケ撮影を好んだヌーベルヴァーグのフランソワ・トリュフォー監督はルノワール監督を恐らく最も尊敬していたのですが、ジャック・ベッケルも尊敬していたのではないかと思います。 
 
  もう1点は、セルジュ・レジアニと言えば、イヴ・モンタン主演の「夜の門」ではナチ占領時代にコラボ(密告者)として生きてきたことで戦後、悲惨な自殺を遂げる青年役を演じていましたし、アラン・ドロンとリノ・バンチェラが1人の女性に恋する「冒険者たち」でも脇役として登場しますが、筆者の見た彼の映画ではいずれもパッとしない哀しみを心にためた男の役でした。ところが、「肉体の冠」では主演を張れるいい俳優だなあ、という発見がありました。そして、シモーヌ・シニョレとの恋にはまっていく過程はジャック・ベッケルの演出は非常に巧みです。そこでも河べりのあふれるような光が満ちているのです。 
 
  トリュフォーの師匠だった映画評論家のアンドレ・バザンはルノワール監督が台本通りに撮るのではなく、台本を基にこそすれど、本質は俳優たちの「遊び」(フランス語で「演技」には「遊ぶ」という意味もある)としてのドキュメンタリーを撮影していた、といったことを「ルノワール」(フィルムアート社 ※)で書いています。つまり、俳優を台本の役柄という型にはめるのではなく、台本よりも、生きた人間としてのそれぞれの俳優の個性を重視したことでしょう。俳優一人一人の生き生きした生命感を、カメラで瑞々しくとらえた、ということになります。 
 
  私もルノワール監督の「どん底」という映画を10代で見て映像業界を志すことに決めたのですが、「どん底」というゴーリキーが描いた貧民窟の悲劇がルノワール監督の手になると、やはり生き生きした瑞々しい話になっていたのを覚えています。野原に寝そべってルイ・ジューベが演じる「男爵」と、ジャン・ギャバンが演じる泥棒の「ぺペル」が話をしているシーンで、その背景に草が生えており、まさにそれは田園を描いた絵画そのものに感じられました。ルノワールの弟子たるジャック・ベッケルも、「肉体の冠」が悲劇でありながらも、何か胸がときめくような、明るい印象が映画の根底にあるのは、田園の光があふれているからだと思います。そして、シニョレもレジアニも、まさに本当に生きているような、生き生きした笑顔と喜びがフィルムに永遠に刻まれているのです。単なるテクニックのある犯罪映画の名匠というだけでなく、光を中心に据えた映画そのものの魅力を感じさせてくれた監督なのだと思いました。 
 
 
※「・・・しかしルノワールは、悲劇的なものについての感覚をもちながらも、それにいつまでもしがみついていたりはしない。そしてそれは、彼がその感覚を低く評価しているからではなく、運命にうち勝つ唯一の方法は、それでもなお幸福を信じることのなかにあるからなのだ。この観点から見た場合の最も特徴的な映画は、考えるかぎりで最も陰鬱な主題をもとにし、それを喜劇的なもののなかにずらしてつくられた「どん底」だろう。シナリオのテーマの対位法と対応する、つねに倫理的な対位法をもちいてのこうした巧妙な遊びこそが、ルノワールのフランスでの作品に、優しさと風刺をともに含みもったあの活気を、善良そうであると同時に意地の悪そうなあの外見を、いくらか厚かましいところがあるあの無邪気さを、喜びと絶望をともに信じようとするあの軽妙さを、フランスのモラリストの小説家たちの偉大な伝統にふさわしいあの語り口を与えているのである」(アンドレ・バザン著「ジャン・ルノワール」から) 
 またアンドレ・バザン著『映画とは何か』(岩波文庫)ではルノワールの次の発言が引用されている。 
 「この仕事で経験を積めば積むほど、わたしはスクリーンの深さを用いた演出をすることに惹かれるようになってきた。まるで写真店にいるみたいに大人しくカメラの前で向い合っている二人の俳優を撮る気がしなくなってきたのだ」 
  手前から奥までピントが合うパンフォーカスという撮影手法をオーソン・ウェルズが「市民ケーン」で用いたのが映画史的に知られているが、その先駆者がルノワールだったとバザンはここで記している。モンタージュのために細切れにされた映画に対抗して、パンフォーカスは映画のシークエンスに「持続」をもたらし、持続こそが俳優たちに「遊ぶ」余地を与えることになったのだろう。 
 
 
※「肉体の冠」のトレイラー 
http://www.allocine.fr/video/player_gen_cmedia=19466867&cfilm=1103.html 
 
 
■Apostrophes : Francois Truffaut parle d'Andre Bazin | Archive INA 
https://www.youtube.com/watch?v=ra_vj6oPpDQ 


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