2020年10月05日14時54分掲載
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コラム
新聞記事における識者のコメントでなぜ特定の著名人ばかり登場するのか?
新聞記事で記者たちが識者にコメントを求める際、どう見ても、特定の著名人に集中する傾向があるように思われる。たとえば、フランス文学とかフランスの哲学や法哲学などの方面でも、常々登場するのはせいぜい10人程度ではなかろうか。大学でフランス語を通した研究や哲学に携わっている人々が日本にいったい何人存在するのだろう。正確な数は数えたことがないけれども、准教授や様々な教員まで射程に入れると、数百人には上るのではなかろうか。それにも関わらず、特定の人々の意見ばかり新聞が取り上げるのは、それがプロセス上、楽であり、それらの識者が言いそうな内容が事前に想定できる予定調和性にある、と言えると思う。
そうした新聞記者の都合は理解できる。紙面を作るにあたって、インタビューしてみても、全然とんちんかんな話をされたり、あるいは、自分が構成したい方向性のストーリーを覆す話をされたりすると、時間に追われて記事を書いている記者たちにとっては悪夢となるだろう。
だが、それこそが、新聞を平板且つ、画一的にしている元凶でもある。世界の多様性が反映されていないからだ。そこには正解は世界に1つ、という教育を受けてきた人々の歪んだ世界像が反映しているとすら思える。正解が1つなら、最短で正解を与えてくれる人にアクセスしようとするのは当然のことだ。だが世界に正解が1つ、と言う考え方こそがファシズムの始まりである。
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