2020年10月08日13時07分掲載  無料記事
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イタリア現代史ミステリー 第一弾「イラリア・アルピの死」(その6)〜チャオ!イタリア通信

(前回記事) 
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→(イタリア国営放送局記者のイラリア・アルピの死から26年。彼女はなぜ死ななければなからなかったのか。事件の経過を振り返る) 
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 イラリアが行った「行ってはいけないところ」とはどこなのか。そして、事件直前、上司に「面白いニュースがある」と話した「面白いニュース」とは何なのか。イラリアとミランが事件に遭うモガディシュに行く前にボサソというソマリア北部の都市に居たことはすでに触れている。ボサソこそ、イラリアたちが「行ってはいけないところ」だったのだ。 
 
 ボサソは、ソマリア北東にありアデン湾に面する第二の都市である。海に面した立地を利用して、ボサソ港は紅海やペルシャ湾を航海する船舶の補給基地として発展していく。イタリアは第二次大戦中に現在のソマリアの一部を植民地としており、それからソマリアとの関係は続いている。1960年にソマリアが統一独立し、近代化を目指した国造りをする中で、イタリアは1980年から1990年の10年間で1400億リラもの大金を経済援助としてソマリアにつぎ込んでいる。その半分が、港湾施設や道路などのインフラに充てられている。この経済援助はソマリア内戦により中断されるが、1992年8月に再開される。イラリアが、ソマリアへの取材を始めたのはこの時期である。1994年事件のあった年、イラリアは偶然にソマリアへ行ったのでも、テレビ局の取材だけで行ったのでもない。本人の意志で、ある目的を持ってソマリアへ行ったのだ。 
 
 イラリアの事件を追っている週刊誌「ファミリア・クリスティーナ」の記者アルベルト・カルヴィ氏は「イラリアは、ボサソに行く目的で、1992年から1993年の間に4回もソマリアに行っている」と発言している。また、イラリアがボサソに行く意図を持っていたことは、イラリアの両親も確信しており、彼女が最後のソマリア滞在前に書いたノートにもボサソのことが書かれていたようである。さらに、イラリアの上司も、1994年3月にイラリアがボサソに行く意図を持っていたことを知っていたようである。 
(次回に続く) 


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