2021年02月07日05時04分掲載  無料記事
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イヴァン・ジャブロンカ著「歴史家と少女殺人事件 〜レティシアの物語〜」

  イヴァン・ジャブロンカ著「歴史家と少女殺人事件 〜レティシアの物語〜」(名古屋大学出版会)はフランスで大きな話題になった2011年1月に起きた18歳の少女が殺された事件を通して、現代フランスの影の部分に光を当てたノンフィクションの力作だ。昨年7月に真野倫平氏による翻訳が日本でも出版されたが、もっともっと読まれてよいと思う。筆者は本書を読みながら、久しぶりに本格的なノンフィクション作品を堪能したという満足感とともに、現代の闇の中で生きている数多くの若者たちのことを思うと苦い思いにとらわれた。特に貧困問題と家庭内のインセスト(近親相姦)の複合事例である。 
 
  2011年に被害者のレティシア・ペレは窃盗や暴力事件の常習犯の男に殺され、バラバラにされて池に沈められたのだが、もし、その男と事件の直前に出会っていなかったら、レティシアの物語は今も継続していただろう。それはこの1回性の殺人事件や殺人犯に全責任を押しつけて解決できるものではない、もっと社会的な問題が根底に横たわっていることを本書は示しているのである。レティシアの両親に問題があり、父親が母親に暴力をふるい、レイプを行ったことで収監され、母親は精神病院で入院していたという家庭の事情。それによってレティシアと双子のジェシカは里親に引き取られる。 
  だが、そこで里親から受けた性的暴行あるいは近親相姦的な事件。シェルターを提供する大人から、逆に性的な関係を強要されていたのである。双子の姉のジェシカは性的行為を強要されながらも、家にとどまりたいためにそれを告発することができなかった。告発して事件が表に出ることになったのは妹のレティシアの殺害事件がきっかけとなった。里親はジェシカとの件では有罪となったが、レティシアの件では被害者が死亡して立証できなかったこともあり、有罪にはならなかった。レティシアが年上の常習犯につけこまれて、挙句に殺されてしまったのは、そうした少女時代と無縁ではなかったかもしれない。レティシアに自殺願望があったことも著者の検証で浮き上がってきた。鬱々とした心情の中で、鬱陶しい世界からの解放者のように見えた男と出会って命を失うのである。この男が、レティシアの実の母親に暴力をふるってレイプをしていた実の父親に似ていた、というのは、まるでこれら3人の男で〜実の父、里親、殺人者となる男で〜レティシアの人生の閉ざされた回路が一巡したかのような印象を与える。 
 
  著者のイヴァン・ジャブロンカはステレオタイプな烙印を押すことをせず、事実を淡々と描き出していく。たとえば、そんな不遇な人生の中でもレティシアが幸せを感じた瞬間や、レティシアのSNSに垣間見られた言葉の数々に、読者は胸を打たれるだろう。同じ境遇でありながら、選択を変えていく双子姉妹の間の愛情とコミュニケーション。それが胸を打つのは、私たちが若者たちの心情に通常、そこまで入り込むきっかけがないことによる。著者のイヴァン・ジャブロンカは本書の中で執筆の動機をこう語っている。 
 
  「レティシア・ペレの生前には、ジャーナリスト、研究者、政治家の誰一人として彼女に関心を抱く者はいなかった。なぜ今日になって彼女のために一冊の本を書くのだろうか。この通りすがりの女性は、奇妙な運命によって一瞬だけ有名人になった。世間の目には、レティシアは死んだ瞬間に誕生したのだ。私は三面記事事件を歴史の対象として分析できることを示したい。三面記事事件は決して単なる「事件」でも「雑多」でもない。それどころか、レティシア事件の陰にあるのは人間性の深淵とある種の社会状況である〜すなわち、家族の解体、子供たちの無言の苦しみ、早くから社会に出る若者たち、そしてさらに、二十一世紀初頭のフランスの貧困層、都市周辺地域、社会的不平等。われわれが明らかにしたいのは、捜査のメカニズム、司法制度の変貌、メディアの役割、行政府のはたらき、その告発の論理やその共感のレトリックである。揺れ動く社会の中で、三面記事事件はその震央に位置している」 
 
  イヴァン・ジャブロンカは2019年に来日して東京の日仏会館で講演を行ったが、筆者はその時に受けた衝撃をよく覚えている。その衝撃というのは彼がフランスでノンフィクション復興の運動を行っており、特にアカデミーの領域あるいは歴史学者を含む社会科学者がノンフィクション文学を書くことによって、新しい知の地平が開けてくると示唆したことだった。その文学的太陽系の中心には真実の探求が位置する。そういうジャブロンカ自身も歴史学者であり、著書にはアウシュビッツで殺された祖父母の人生を徹底調査でたどった「私にはいなかった祖父母の歴史」(田所光男訳)がある。これも重い感動を与える力作である。レティシア・ペレの人生を描いた「歴史家と少女殺人事件 〜レティシアの物語〜」との共通点は生前に会ったことがなかった人々の人生を、調査と遺物の読み込みによってたどり、被害者の人生に尊厳を取り戻させるという営みになるだろう。三面記事は多くの場合、一瞬だけ注目されて、忘れられていく。しかし、ジャブロンカはそこを掘り下げて、その背景を社会の普遍性のレベルまで探りながら、万人に届く文学にしているのである。こうした姿勢はイヴァン・ジャブロンカが大学時代に薫陶を受けた歴史学者アラン・コルバンと通じるものである。言葉を残さずに死んでいった文盲の人々を調査によって、その人生をたどるというものだ。 
 
  今年になって、フランスでは親や近親者が子供に性的暴行あるいは性的行為を強いる事例が次々と告発されており、本書で描かれた状況はまさにそのど真ん中にあると言ってよい。ある調査によれば10人に1人が体験しているという。血のつながった親の場合もあれば、再婚した親の新しい配偶者による場合もある。ジャブロンカが動機で書いているように、レティシアはたまたま不幸な殺人によって命を奪われたことでその存在に光が当たったが、殺人事件が起きなかったとしても、そこには大きな問題が存在するのだ。暴力がいろんな形で絡み合っているというところは重要である。ジャブロンカは本書の後、現代の「男性性」への批判とその再構築、という課題に歴史学者として取り組んでいく。祖父母の人生の探求から、レティシアの物語、そしてその後の著作物を見ると、ジャブロンカが一作ごとに発展していることが見える。まさにそれが作家たる証左だろう。 
 
  三面記事事件の中から、想像力を働かせ、実際に調査を行うことで、社会に起きている真実を掘り起こし、それによって尊厳を奪われた人々にそれを取り戻させる、まさにそれはノンフィクションが持つ機能であり、その生命でもある。そういう意味で本書はストライクゾーンのど真ん中に飛んでくるボールであり、何度も読まれるべき価値のある本だ。 
 
 
※著者が本書について語ったインタビュー映像 
https://www.youtube.com/watch?v=Ts4tY572BaE&fbclid=IwAR3OQ3uPbp297WNYGcezjLiRf03GsEizDog5Pfq1x9Z1TJV6L63qd93FC24 
 
 
村上良太 
 
 
■イヴァン・ジャブロンカ氏の日仏会館における講演「社会科学における創作」 
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201906250215032 
 
■パトリック・モディアノ著「ドラ・ブリュデール」(邦訳タイトル「1941年。パリの尋ね人」) 
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201602180848024 
 
■日仏会館のシンポジウム 「ミシェル・フーコー: 21世紀の受容」 フランスから2人の気鋭の哲学者が来日し、フーコーについて語った 
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201805221137522 
 
■リュシアン・フェーブル著「歴史のための闘い」 
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201908121920081 
 
■歴史家アンリ・ルッソ氏の来日講演 「過去との対峙」 〜歴史と記憶との違いを知る〜 
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201810240710113 
 
■イヴァン・ジャブロンカ著「私にはいなかった祖父母の歴史」  社会科学者が書く新しい文学 
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201908021535275 


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