2021年02月13日20時05分掲載  無料記事
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コラム

森発言は日本社会の後進性を反映したもの  盛田常夫:在ブダペスト、経済学者

コロナ禍の最中、皆様いかがお過ごしでしょうか。 
 本題に入る前に、最近のハンガリーのコロナ状況を報告しておきますと、事態は改善方向に向かっています。1日の新規感染者が1000名前後、死者が100名前後、病院治療を受けている患者が3800名前後、人工呼吸器装着患者が300名前後となり、かなり落ち着いてきました。病床が不足する病院の逼迫感はなくなりました。死者のほとんどは高齢者です。 
 隣国の状況が改善していないので、引き続き各種制限措置が継続されており、少なくとも3月1日までは解除されない見通しです。現在、レストランはすべてテイクアウトのみの営業になっており、午後8時以降は外出禁止です。これにしたがい、スーパーマーケットは午後7時で閉店となっています。 
 森喜朗発言について、以下に私見を記します。 
 
 森喜朗五輪組織委員会会長の「理事会に女性がいると、会議が長くなる」という発言は男女差別発言として批判されているが、もっと根本的には日本社会に日常的に存在する後進性から発生している問題である。会社であれスポーツ組織であれ、比較的小さい組織や閉鎖性が強い組織では、トップとその側近で物事の結論を決め、会議でその形式的承認を求めるという慣行が一般化している。独裁的な指導者(管理者)が権勢を誇示している組織では、多数の討議による合意というプロセスが徹底的に排除される。 
 とくに日本のスポーツ組織にはこの傾向がみられ、子供のスポーツクラブからプロの組織に至るまで、指導者に刃向かうことが許されない風土が形成されている。そこで異論を唱え、反対意見などを披露しようものなら、指導者の怒りを買うだけでなく、利害関係のある家族や同僚からも白い目を向けら、挙げ句の果てに村八分にされる。男女を問わず、指導部(者)に意見を言うことは問題を紛糾させるから、権威によって抑え込むという風習が深く根付いている。体罰によるスポーツ指導はまさにこのような封建制に基礎を持っている。現代の日本社会にはこのような閉鎖的な組織がいまだ数多く存在している。 
 
●問題の根源の一つは体育会寮生活 
 
 閉鎖性と後進性の最たるものが、寮生活を強制している大学体育会(野球やラグビーなどの主要な団体競技)である。ほとんどの体育会の寮生活では軍隊的な上下関係が強要されている。甲子園優勝校主将で駒澤大学野球部に体育推薦で入学した選手が強盗致死で起訴されたが、彼は被告人質問の中で、野球部を辞めたきっかけが寮生活における理不尽な風習にあったことを証言している。私立大学の体育会で、寮生活を強制している体育部は、戦前の封建的軍隊の不合理で恣意的な決まりを横行させている。戦後、アメリカの大学に倣って、学生募集のために大学スポーツを利用してきた日本の私立大学は、陰湿な戦前軍事的封建制を引き継ぐ体育会組織を容認してきた。大学の宣伝にスポーツを利用するというアメリカ的要素が、その開放性を削がれて、陰湿な軍隊的な生活に転嫁したものが、日本の私立大学の体育会寮生活である。これほど時代遅れの社会はない。そこから育った選手が日本のスポーツ組織のトップに立つ限り、日本のスポーツ社会の封建制や後進性は克服されない。しかし、日本の私立大学が学生体育会寮を廃止し、スポーツ組織の民主的運営を目指すことはない。体育会の推薦入学は理事会事項だから、教授会がこの問題に取り組むことはない。私立大学の不可侵な聖域を形成している。これこそ日本の私立大学の恥部である。 
 
●「議論という煩雑さ」を避けたいスポーツ団体トップ 
 
 今回はたまたまスポーツ団体の理事に女性を増やす文科省の指導があって女性差別問題になったが、事の本質は組織の民主的運営である。男女を問わず、「一家言のある新しい理事が入ると、組織の慣行を知らず、会議で質問したり、反対意見を述べたりするから、面倒になる」というのが、古い体質を抱えるスポーツ組織の指導者の感情である。森喜朗は同じ穴の狢として、それを代弁しただけだ。多分、山下泰裕JOC会長が柔道連盟の理事会で、4名の女性理事が積極的に発言する煩わしさを、森会長に愚痴ったのだろう。それをあたかも冗談のように公言して受けを狙ったのだろうが、森喜朗の知性のなさをさらけ出すことになった。これが事の真相である。 
 政治組織もまた、この弊害から逃れることができない。自民党であれ共産党であれ、指導部の見解に異を唱えたり、反対意見を述べたりすることが差し控えられる。その究極の姿が、中国共産党や朝鮮労働党の大会などの戯画的光景である。独裁的な組織は組織内部の自由な意見表明や討議を排除し、指導部が決めた決定を下達するだけである。すべてのことを少数の談合で決めることができるから、討議なしの一方的な下達は指導部にとって都合がよい。こういう仕組みに慣れてしまうと、シナリオなしに議論したり、討議したりする力量が育たない。だから、首相を含め、日本の閣僚や政治家は事前のシナリオのない議論ができない。ここが欧米の政治家との決定的な違いである。 
 
●「世俗の王」への願望はどこにも存在する 
 
 多くのスポーツ組織には個人的な独裁者が「王様」のように居座り、その回りには「王様」を支える家臣が取り巻いている。ヤクザ組織のような親分子分の関係が支配しているところもある。日本の場合、大学の体育会から派生する組織の封建制と閉鎖性が、時には薄められたり、時には出身大学の派閥抗争の形を取ったりして、連綿と続いている。 
 しかし、このような封建制や閉鎖性はなにもスポーツ組織だけに見られる現象ではない。政治組織や制度もまた、封建的な性格から抜け出ることができない。啓蒙王制を打ち倒し、労働者権力を樹立したロシア革命は、結局のところ、「神聖の王」に代わる「世俗の王」を生み出したに過ぎなかった。いかなる国であれ、人間社会が一足飛びに理想社会へ向かうことはない。それぞれの社会は歴史の制約から免れることはない。イデオロギーだけで社会主義を考える人には、イデオロギーが示す抽象的な理想と現実的歴史条件の大きな乖離を理解することが難しい。 
 人間社会の根本的な変化には100年単位の時間を必要とする。「労働者独裁権力」は結局のところ、「王制」に代わる「党制」を創り出しただけで、それがやがてスターリンのような「世俗の王」(独裁者)を生み出した。21世紀になってもロシアや中国などのアジア・ユーラシア諸国には、依然として、「世俗の王」が君臨している。ロシア革命から100年を経過しても、「世俗の王」の支配が続いている。人類にとって、王制から共和制への社会転換の道はいまだ遙かである。それは何も政治制度だけのことではない。社会のあらゆる組織についても言えることである。 
 森発言を批判するなら、身の回りの理不尽な忖度や服従にも目を向けることが必要だ。 
 
 
盛田常夫:在ブダペスト、経済学者 
 
 
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ちきゅう座から転載 


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