2021年03月17日14時50分掲載  無料記事
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アジア

孔雀の勝利の踊りはいつ? クーデターへの非暴力抵抗を呼びかけ拘束されたスーチー氏側近のNLD幹部、不屈の歩み

 ミャンマー国軍はクーデターに抗議する市民への発砲を連日つづけるとともに、アウンサンスーチー氏率いる国民民主連盟(NLD)への弾圧を強化している。党員らの拘束があいつぎ、拷問で殺された者もいる。「クーデターに屈してはならない」とスーチー氏がNLDのフェイスブックをつうじて国民に呼びかけたのを受けて、民主化実現へむけて「非暴力の抵抗」を訴えた彼女の側近ウー・ウィンティンも拘束された。NLDとはどのような政党なのかを、その結党の経緯と主要メンバーで確認しておこう。(永井浩) 
 
▽「新しい世代の奮闘」を期待 
 「ミャンマーを独裁国家に逆戻りさせてはならない」と国民に抵抗を呼びかけたスーチー氏の声明は、彼女が国軍に拘束された数時間後に発表された。地元メディアによると、声明は彼女が万が一のクーデターを懸念して側近に託していたという。その側近が、NLD創設メンバーのひとりで、彼女の右腕とされる幹部のウー・ウィンティン(ウーは男性の敬称)である。 
 彼女は声明で、「この声明を人びとが読むころ、国民の圧倒的な支持をえて誕生した政権は、国軍によって破壊されているだろう」とし、「国軍は自らが作り上げた憲法の存在を無視した」と非難。さらに「法を順守しておこなわれた1990年、2012年、15年、20年のいかなる選挙でも、NLDは勝利をおさめてきた」と指摘、国軍の政治的影響力を温存する現憲法の改正にNLDが取り組んできたのは「憲法にしたがって遂行してきた」正当な行為であると主張した。 
 
 声明について当初真偽を疑う声もあったが、ウィンティン氏は地元メディアに本物であることを強調、支持者らにクーデターによる政権の破壊と独裁国家への逆戻りに「できる限りの反抗」を呼びかけた。彼はその反抗方法について、スーチー氏が民主化実現にむけて長年おこなってきた「非暴力の抵抗」を踏襲するようもとめた。 
 「彼(ミンアウンフライン国軍総司令官)は国益よりも自身の権力への野望を優先した」として、国民に「平和的な手段で抗議してほしい。新しい世代の人たちが、民主主義をもとめて奮闘しつづけてくれると信じている」と呼びかける、ウィンティン氏の動画もSNSで拡散した。この呼びかけに応えるように、ミャンマー各地でクーデターに抗議する市民の民主化デモと職場を放棄する不服従運動がひろがっていった。 
 89の老闘士は5日未明、首都ネピドーから最大都市ヤンゴンに向かい、娘の家で拘束された。その後、国民を扇動した疑いで訴追、有罪になれば最高で終身刑が科される。彼はかつての軍事政権下でも軍政に抵抗して、何度も政治犯として刑務所で服役してきた。 
 国軍はすでにクーデター直後の2月1日から、スーチー氏はじめ数百人のNLD関係者を拘束していた。 
 
▽1988年の民主化運動でNLD結党 
 NLDは、1988年の民主化運動の全国的なうねりのなかから生まれた。運動は当初、学生が主導し、ネーウィン軍事独裁政権を退陣に追い込んだが、国軍は非武装のデモ参加者に今回のクーデター後とおなじように無差別発砲をくりかえし、クーデターで実権を掌握した。新たな軍事政権は総選挙を実施し、勝利を収めた政党に政権を移譲すると公約した。これを受けて雨後の竹の子のようにさまざまな政党が設立されるが、国民の圧倒的支持を集めたのが、「独立の父」アウンサンの娘であるアウンサンスーチーが書記長をつとめるNLDだった。 
 では、党の執行委員会の主要人物はどのような人たちだったのか。彼女が最初の自宅軟禁から解放された1995年から毎日新聞に連載したエッセイ『ビルマからの手紙』(以下「手紙」)で2回にわたってくわしく紹介されている。 
 「ちょっとした紹介」と題する回では、軍人4人組が登場する。 
 議長のウー・アウンシュエは、ラングーン大学を卒業したのち、1942年にビルマ独立義勇軍に参加した。48年のビルマ独立後も、彼は軍隊勤務をつづけ准将まで昇進した。62年に南部軍管区の司令官を務めていたときに、退役をもとめられ、オーストラリア大使に転出させられた。軍からの引退の理由は明らかにされていないが、同年にクーデターで誕生したネーウィン政権へのなんらかの批判をかわすために、彼が犠牲にされたようだ。彼はオーストラリアのあと、エジプトとパリで外交官生活をつづけたが、自分の国を世界最貧国のひとつに変えてしまった同政権のビルマ式社会主義に愛想をつかしていた。 
 会計担当のウー・ルィンは、18歳のときにビルマ独立義勇軍に参加、43年に日本の陸軍士官学校で訓練を受けるため母国をあとにした。独立後は英国と西独で研修を受け、59年にワシントンの大使館付き陸軍武官に派遣された。米国から帰国後、軍管区の司令官を務めたあと、請われて、62年にネーウィン政権の大蔵大臣などの要職を歴任した。88年にNLDに参加、その財政面の経験と非のうちどころのない高潔な人柄を買われて会計責任者に任命された。 
 ウー・ルィンとともに軍事訓練のため日本に赴いたビルマ士官候補生のなかに、彼と無二の親友となるウー・チィーマウンがいた。彼は大学では英国からの独立をもとめる学生運動に奔走し、32年にはデモ隊の先頭に立っていて騎馬警官隊の警棒に殴り倒され負傷した。独立後のビルマ国軍の中核にいたが、軍隊は政治に関与せず軍務に専念すべきであると信じる彼は、62年の軍部による政権奪取に強く反対した。このため、南西部軍管区の司令官を務めていた63年に退役をもとめられた。彼は退役以来4半世紀のあいだに、2度、合計7年間投獄された。ビルマ社会主義計画党の軍人政府に反対したという容疑だった。88年の民主化運動が起きてからしばらくして、三たび刑務所に引きずり込まれたが、一か月たらずで釈放され、NLDの執行委員のひとりとなった。 
 もうひとりの執行委員ウー・ティンウーは、1943年に16歳の若さで軍隊に入った。独立後のビルマ国軍で将校となった彼は、50年代、中国で共産党に負けてビルマに逃げ込んできた国民党軍との戦闘で武勇をしめし、とんとん拍子で出世していき、74年には参謀総長と国防大臣に任命された。同年、国連事務総長を引退したウー・タントの葬儀をめぐる政府の対応に学生が抗議したときと、労働者のデモにしめした高潔な態度が彼に対する国民の人気を高めた。だがそれがネーウィンには気に入らなかったようで、彼は76年に軍から追放されたうえ逮捕され、大逆犯隠匿罪で禁固7年の判決を受けた。 
 80年に恩赦で出所すると、彼はまっすぐ僧院に行き、そこで2年間僧侶として過ごした。在家の静かな生活に戻ろうとしていた彼を、88年の民主化運動はビルマに正義と人権をもたらす闘いに引き入れた。NLDの副議長に任命され、その後議長に就任した。 
 
 この4人の紹介で興味深いのは、スーチー氏は軍人を嫌ってはいないことである。それは、父アウンサンが「国軍の父」でもあるからであり、彼女は軍人を尊敬している。ただし、軍の基本的責務は国防であり、政治には関与すべきではなく、ましてや国民の基本的権利を奪うような行動はゆるされない、というのが彼女の基本姿勢である。NLDの創設に大きな役割を果たした軍人4人組は、いずれもエリート軍人として軍の要職に就きながら、国軍の本来の任務から外れていくネーウィンの軍事独裁政権にたいして違和感をいだくか、批判的な態度をとるとみなされて、排除されていった経歴で共通している。 
 そのNLD創設者の一人、「父のように接してくれた」ウー・ルィンが2011年に87歳で亡くなったとき、スーチー氏は彼がうけた軍人教育の成果がNLDでどのように発揮されたかを追慕している。軍政の特別捜査局が8回にわたり党の帳簿類への嫌がらせの強制捜査に乗り出しても潔白でいられたのは、財務部長である彼の細心の仕事のおかげだった。穏やかな性格のルィン氏は、軍人らしい身だしなみを失わなかった。頭髪は清潔で、ポケットから取り出す小さなくしでなでつけられている。「姿勢は真っすぐで、長時間の訓練で鍛えられたことを物語る動作には狂いがない」(「手紙」) 
 
▽「勇気と高潔の人」ウー・ウィンティン 
 書記長のスーチー氏が、この4人につづいて「特別の紹介」をするのが、NLD結党当初からのメンバーで唯一、いまだに獄中に残されている人物、ウー・ウィンティンである。 
 氏は軍人4人組と異なり、一度も軍隊に所属したことがない。文筆の世界が彼の活躍の場だった。すでに大学卒業以前から、彼は「ビルマ翻訳協会」で副編集長として働きはじめ、54年にはオランダのある新聞社の顧問編集者になった。こうして長いジャーナリズムの道への第一歩を踏み出し、ついにはビルマ屈指の日刊紙のひとつ、「ハンタワディ」の編集長に任命されるまでになった。 
 彼が同紙編集長をつとめていた時期は、ネーウィン政権のビルマ式社会主義によって、自由な言論と表現に対する制限がしだいに強まっていった。だが少数の作家とジャーナリストたちはひそかに知的自由の権利を守り通そうとした。78年にビルマ式社会主義に批判的な論文が、ウィンティン氏を中心とした「土曜読書会」で発表された。彼は解雇され、ハンタワディ紙は政府によって廃刊された。それからの10年間、彼はフリーの物書きと翻訳家として生計を立てた。 
 「知的自由と正義を信じる人びとが、88年にはじまった民主化運動の先頭に立つのはごく自然の成り行きだった」と、スーチー氏は記す。ウィンティン氏は、運動の初期に登場した「作家同盟」ではじめから積極的な役割を果たし、NLD執行委員会の書記の一人になった。 
 氏はその確たる能力と意志の強さゆえに、民主主義運動に反対する人びとの格好の標的とされ、89年にNLD指導者として真っ先に逮捕される一人となった。罪状は、逃亡犯と宣言されたある人物の父親と電話で話したというもので、十分な証拠は認められなかった。逮捕後、彼は3日間食事も睡眠もあたえられず、民主化運動における彼の活動について尋問をうけた。「尋問官たちは彼に、彼が私(スーチー)の政治戦術顧問である、言いかえれば、私を背後から操っている人物であると無理やり認めさせたかったらしい。勇気と高潔の人、ウー・ウィンティンは脅しに屈服して虚偽の告白をすることはなかった」。彼は禁固3年の判決を下された。92年、刑期が満期になる2,3ヶ月まえに、彼はあらたな茶番めいた別の裁判を受けさせられ、さらに11年間の拘留を言い渡された。 
 長年の獄中生活は彼の健康を悪化させ、米国下院議員ビル・リチャードソンが94年に会ったときには、首に添え木をあてていた。脊椎症が追討ちをかけたのである。「しかし、彼の知性はこれまでとおなじように明晰であり、その精神は直立不動であった」(同) 
 
▽受け継がれるNLDの闘いの歴史 
 このような異なる経歴をもつNLDの創設メンバーが、党の発展をめざしてこころを砕いたのは、いかに一般民衆とのあいだに双方に有益な緊密な関係を築き上げていくかであった。そのために経済をふくめた各分野の政策が策定されるが、それらの目標を実現しいていく基盤となるのが民主主義である。いくつかの欠陥はあるにしても民主主義がほかの政治制度より優れていることを、国民に説明した。「なかでもいちばん重要なのは、なぜ政治変革は非暴力的な手段をつうじて成し遂げるのが最もよいとわれわれが信じるのかを、民衆に分かってもらうよう努めたことである」(同) 
 NLDの党旗は、赤地に踊る大きな孔雀が金色に染めぬかれている。スーチー氏によれば、これは、ビルマ国民の政治意識を最初に目覚めさせた学生たちの象徴であり、ついに国家の独立を勝ちとった民族運動の象徴なのである。だが、私たちの民族運動は未完のままであるとして、彼女はこう記す。「孔雀が勝利の踊りを踊る時はまだ満ちていないのである」 
 
 話は前後するが、1988年の民主化運動を弾圧したあとに軍事政権が約束した総選挙は、90年におこなわれた。軍政はNLD人気をおそれて、その前にスーチー氏を自宅軟禁し他の幹部の選挙活動の自由も奪ったが、投票結果はNLDの圧勝だった。しかし軍政は公約を守らず、同党への政権移譲をこばみ、2011年の民政移管まで権力の座に居座りつづけた。NLDはその間、スーチー氏がさらに2回、計15年におよぶ自宅軟禁に処せられるなど、党員や支持者は徹底的に弾圧されてきた。 
 だが2015年の総選挙でLNDが圧勝してスーチー政権が誕生、やっと民主化の花が開きはじめた。つづいて20年の総選挙でもNLDが圧勝し、国軍系の連邦団結発展党(USDP)が惨敗した。孔雀はついに勝利の踊りを舞いはじめたと思われたのもつかのま、国軍はそれを阻止すべく、クーデターでふたたび実権を奪い返そうとした。スーチー国家顧問は身柄を拘束され、「ミャンマーを独裁国家にもどしてはならない」という彼女の国民への声明を受けて、クーデターへの「非暴力の抵抗」を若い世代に訴えたウー・ウィンティンも拘束された。 
 NLDの苦難の歴史は多くの国民の記憶に刻み込まれている。若い世代は、スーチー政権の5年間で味わった自由を奪い取られることに強い危機感をいだき、民主主義を守り抜くために非暴力の抵抗行動に立ち上がった。デモの隊列のなかには、スーチー氏の解放をもとめるプラカードとともに、赤地に金色の孔雀が踊るNLDの党旗もひるがえっている。 


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