2021年12月04日20時21分掲載
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そこにいるのは「患者」ではなく「人間」 私たちは「悶え神」になる 『水俣曼荼羅』 笠原眞弓
水俣病は、悲惨で辛く、しかも相手は国策が絡んだ企業なので、救済され難いというのが定説です。この映画も、熊本県側が登場すると患者を見下す態度であふれています。この映画で見る限り、ちゃんと謝罪したと思えたのは、裁判で敗訴した時、潮谷義子前知事がこれまでの県の姿勢が間違っていたこと、それを自分が現知事として過去にさかのぼって謝罪すると言っただけです。
ところでこの映画は6時間、3部になっています。ホールで見たのですが、その6時間が長く感じなかったのです。
1部は「病像論を糺す」で、2人の医師はそれまでの定説「末梢神経障害」に疑問を抱き、丁寧に検査のやり直しをしていき、ついに「中枢神経の障害」と突き止めます。新たな論文によって裁判が勝訴していきます。そして、その検査の過程での医師の態度が、偉そうでも、学術用語で煙に巻くわけでもなく、丁寧にその検査研究内容と、何が分かったかを患者さんに説明していく過程が映し出されます。この説明あってのこの映画といえるくらいに、時間をかけます。
そしてもう一つ大きな特徴は、水俣病の患者さんを「患者」としてだけで括っていないところです。患者さんの日常が「辛く悲惨である」という視点だけではないのです。県職員の態度になぜ怒ったのか、なぜ許したのか、なぜ訴訟を取り下げたのか、人間としての深いところまで聞き込んでいきます。
胎児性水俣病の坂本しのぶさんの恋バナは、過去30人の「想い人」のうち3人が登場します。彼らは本当に心根が優しく、しのぶさんを包み込んでいるし、彼女もそばで少女のようにテレていて、その姿が素敵です。自分が好きになった人に、全幅の信頼を寄せて次に好きになった人のことを「相談」するのです。その場面を見ると、抱きしめたくなるくらい、私自身の気持ちが洗われていく感じがするのです。監督は言います。この場面を撮るのに何年もかかったと。大阪からの通いで撮っている監督の都合と相手の都合はもちろんだけど、体調など、諸々が関係して、3人にしかインタビューできなかったというのも頷けます。
新婚初夜を語る生駒さん夫妻は、互いに患者であること、相手が韓国籍であることを知りつつ見合い結婚をした経緯と彼らの素朴な明るさが示されます。そして、生業の船の塗装を不自由な体で塗りなおす姿を丁寧に映します。
かといって「怒りの原一男」は健在で、認定をめぐる裁判や県との交渉、勝訴しても救済されないトリックなど、手を抜きません。大テーブルを挟んで、県職員との話し合いの最中に「謝らない」と書いたメモを見つけて素早く奪う場面も執拗に追い、セックスの感覚さえないことを嗚咽と共に訴える男性の姿も捉えます。
15年の撮影、5年の編集に監督の並々ならない執念が見えます。
終盤、監督はまだ存命の石牟礼道子さんに会い行き、そこで「悶え神」という言葉を受け取ります。自分は何もできないけれど、共に苦しみ悲しむことはできるというのです。
この言葉のために6時間があったと思ったのでした。
原 一男監督 372分
11月27日よりシアター・イメージフォーラム他全国順次公開
(レイバーネット日本から転載)
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