2022年10月19日20時46分掲載  無料記事
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コラム

2015年の安保法制は民主主義に仕掛けられたダイナマイト 1日も早く廃棄に

  法制度と民衆のパワーの力関係は時と場所で変化し得るものですが、今日の日本の特徴は民衆のパワーがなくなっていることに尽きます。そのため、ちょっとした法律の変更がテコの効果によって最大限のパワーを生むことにつながる時代です。 
 
  安倍元首相が殺された翌日のメジャー新聞5紙の一致した見出しを見た時、2015年の安保法制は、1933年のナチスの全権委任法と同じ効力を持つことに気がつきました。1933年の全権委任法はワイマール憲法にあった緊急事態の場合に、ヒトラーが国会に代わって法律を制定でき、条約もできる行政の独裁を可能にしたものです。そして、それは時限立法だったのですが、選挙は中止、野党は禁止したまま、更新を続けていきました。2015年に安保法制が制定された時は、まだそこまでの危機感を私は感じていませんでしたが、7月9日の朝刊を見た時、安保法制は全権委任法と等しい力を日本では持ち得ることに気がつきました。憲法は改正されていませんし、緊急事態についても憲法に盛り込まれていないにも関わらず、安保法制で「全権委任法」がほとんど運用可能なまでに国民のパワーが委縮してなくなってしまい、メディアも政府には基本的に逆らえない力学を持ってしまっているようです。 
 
  7月9日の一致した見出しはなぜ起きたのかは、私には謎です。これは新聞社の内部から情報が出て、検証される必要があります。そこで、私は自分なりに仮説を立ててこの文章を書いています。それは安倍首相狙撃の際に、安保法制が<集団的無意識>として発動していたのではないかという仮説です。集団的無意識と書いたのは、必ずしも政権から指示があったのではなく、メディアの自己規制だったかもしれないためです。 
 
  将来、何かきな臭いことが起きた時、まずメジャーのジャーナリズムが政府に一致協力する(であろう)ので、戦争の端緒に世論が疑問を持つことができなくなります。その結果、いったん、戦争になってしまうと今度は、逆に安保法制がジャーナリズムや企業や自治体に協力を強いることが可能になります。そして、基本的人権も必要に応じて制限されることが可能です。必要が何かを決めるのは、もはや国会ではなく、閣議ということになってしまうのではないでしょうか。安倍政権以来、政府は国会を軽視し、自己抑制ができないため、基本的人権がどこまで制限されるかについては、最小限は最大限であると見ておくべきでしょう。日本の人々はこれがどんな事態なのか、まったく想像できていないと思えます。税制、兵役、価格統制、最低賃金、外国への旅行、商業権、住居、生産活動、財産権、労働基準法その他、様々な領域で基本的な人権が損なわれうる可能性が大きいでしょう。最初はちょっとした協力かもしれませんが、戦争が終わらなければいずれは最大限になっていくものです。それは単に戦争に関わるだけでなく、労働の強度や賃金など、日々の労働現場に最も強く波及するはずです。 
 
  その意味でも民主主義を守るために最も緊急にやらなくてはならないことは安保法制の1日も早い廃棄に他なりません。日本国民の反映であるマスメディアは、安保法制のパワーを最大限可能にするメディアであり、最小にとどめるという働きは一切、期待できそうにありません。なぜかと言えばメジャーなメディアは、政府批判記事と必ず一緒に政府応援記事を報じるので、一切が無毒化されてしまうからです。私は5紙が一致した見出しを出した時、メジャー新聞は事実上、1紙になったと感じました。 


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