2022年11月12日16時37分掲載
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コラム
政治家・政党とジャーナリズム 絶対権力を作り出さないために その6 右か左か 上か下か
最近、政治論議で、右か左かが大切ではなく、上か下かが大切です、という語り方をよくSNSで目にします。右か左かには戦後の社会主義のイデオロギーが関係していて、それはもう古い、という思いが込められているのではないかと思います。ただし、上か下かという表現は、権力者(富裕層)と民衆(庶民)という二分法だと思いますが、この表現は「右か左か」に存在したものが抜き取られているように私には感じられます。それは歴史というものです。
右か左か、という時の左右は、フランス革命の際の王党派(議長席から見て議会席の右に位置した)と共和派(議会席の左に位置した)に由来する表現です。で、当初はルイ16世も生きていましたが、王が処刑されて王党派の勢力が小さくなってしまったのちには、そもそも当初は左の共和派だった議員たちが、今度は左右に分裂します。左に行ったのは山岳派と呼ばれるロペスピエールやダントンたちで、国家中央による社会主義的な富の再配分を強く主張していました。一方、ジロンド派は穏健派で富の再配分はあまり強く主張せず、国家中央による経済統制よりも地方分権でそれぞれ市場を反映しながら自由に経済を運営させていった方がいい、というグループでブリッソーとか、コンドルセと言った議員がいました。
フランス革命の例で見ると、右と左は相対的なもので、進化するたびに分裂していくものでもあります。この進化は、フランス革命の時代は産業革命以前であり、社会主義も生まれていなかった時代ですので、ここには米ソ時代のような意味でのイデオロギーはありませんでした。ただ、人口の1%の貴族と僧侶が、納税者だった農民その他99%を支配するアンシャンレジーム(旧体制)を打倒して、富の独占を崩壊させ、身分制度をなくす、という意味で、これを推進したのは左翼でした。歴史的な意味における進化(特権の廃止)と、富の再分配がここでは同期していました。そして、そこにはマルクス主義による進歩史観は不在でした。マルクス主義は19世紀の産物です。ただ、納税者が国民を代表するべきだという公正さが問われて市民革命が起きました。特権階級の廃止における左の延長線上に奴隷の解放や植民地の廃止、男女差別の撤廃も理想としてあります。フランス革命においては当初から奴隷制廃止の声はありましたが、紆余曲折があり、1848年の2月革命まで実現できませんでした。フランスにおける女性の投票権については1944年でした。そして、こうした特権の廃止は、経済における平等がどこまで実現できるかはともかくとしても、富の再配分と本質的には結びつくべきものでした。
進化と言った場合に、1つの決められた道筋に沿って時代が発展する、という史観ではなく、どう進むかわからないが、人間が知識と経験を積み重ねていけば、未来はもっと明るいものになるだろう、という考え方が歴史がその経路や発展様式は別にしても進化するという歴史観になります。それでも本当に人類が進化しているのかどうか、核兵器や戦争、環境汚染などを見ると、楽天的になるのは難しいものでしょう。しかしながら、女性の権利、マイノリティの権利、少数者の権利などが認められるようになったのは進化であり、長い発展の歴史、試行錯誤の積み上げがあって初めて生まれてきたものであり、そこには歴史性があると思います。決してブラウン運動のように行き当たりばったりにでたらめに出来事が続いているわけではありません。偶然性もあるし、予想外の出来事もあるでしょうが、そこには人間の意思と技術の発展が関与しています。
ただ民主主義と一言に言っても、その背景には都市の発展や市民社会の発展、大学の発展など多元的な進化の蓄積があって初めて可能になったものです。そういう意味でマイノリティの権利の進展もまた、アンシャンレジームを打倒した左と方向性を同じにするものだと私には思えます。ただし、それが独裁政権や権威主義政権に転化したとしたら逸脱になり、それは後退に過ぎません。むしろ、新しい形態のアンシャンレジームに戻ったと言う方がよいでしょう。ナチズムもそうです。これらは大衆化社会に生まれた一種の反動と見ることもできます。スターリニズムのソ連時代はむしろアンシャン・レジーム、すなわち反革命による王政復古と言った方が的確でしょう。
上か下かと言う言葉には「今、ここ」しか存在しない感じを私は抱いてしまいます。右か左かには歴史性があります。過去に生きてきた人々の汗や涙がそこにはあります。下が上をひっくり返したと言っても、また新しい上と下が生まれた歴史もありました。そして、歴史は予定調和なものではなくて、どうなるかわからない面があり、誤ることも多々あります。しかし、だから世界は進化しない、と考えるのは無意味でしょう。失敗も試行錯誤もあるけれども、それでもいつかは公正な社会を築くことができるのだ、という信念を持つことは必要なのではないでしょうか。こう考えた時に、右か左か、という表現は決して陳腐ではないのではないかと私には思えます。
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■「Recommencer」(もう一度・・・やり直しのための思索)のマチュー・ポット=ボンヌヴィルと国際哲学コレ―ジュ
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■ツールの古城 〜ロワール河とフランス・ルネサンス そしてレオナルド・ダ・ヴィンチの晩年〜
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