2022年11月14日10時38分掲載
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アジア
「異国に生きる ミャンマーのこどもたち」<1>母国語を学ぶ寺子屋教室 押手敬夫
現在日本には37,000人を超えるミャンマー人がおり、その約45%にあたる17,000人が首都圏に暮らしている。在留資格は技能実習が最も多く、次に特定活動や技術・人文知識・国際業務、さらに留学が続き、永住者、定住者は約5,000人ほどである。そのなかには多くのこどもたちも含まれ、親たちの母国の言葉や文化をよく知らない者も増えてきている。
1980年代は留学生が中心だったが、1988年の軍事クーデターで民主化を求める市民への弾圧や迫害から逃れるために祖国を捨てざるを得なくなった多くのミャンマー人難民が、西武新宿線の中井駅周辺にミャンマー人コミュニティーを作ったのが始まりで、その後、高田馬場や大塚駅周辺に移り住み、今では「リトルヤンゴン」と呼ばれるほどに増えてきた。
2011年以降は祖国の民主化も追い風になり、更に多くのミャンマー人が日本で暮らすようになり、ミャンマー人コミュニティーの中にも世代交代が始まりだした。
高田馬場でミャンマー料理店「ルビー」を経営するチョウチョウソー、ヌエヌエチヨウ夫妻も、1988年の国軍クーデターで日本にやってきた難民のひとりである。
祖国を離れて既に33年が経ち、今ではミャンマーよりも日本での暮らしが長くなった。
チョウチョウソー氏は今では在日ミャンマー人のリーダーとして、多くのミャンマー人にとって精神的支柱の存在である。2011年の東日本大震災の際には、自ら呼びかけミャンマー人の支援組織を組成して、いち早く被災地へ炊き出しにも出かけて行った。
彼はこう語っている。「軍事政権や独裁者に反対する政治活動は、個人的には全部マイナスで何もプラスになることはありません。でも私はビルマの独裁体制を見過ごすことはできません。家族とも別れ、帰りたくても帰れない。しかし自分がビルマのためにやってきたことは自分の利益のためでなく、今ビルマに暮らしている人たちのためであり、ビルマの将来のためです。だから私個人はマイナスでも構わないのです」
2014年にチョウチョウソー、ヌエヌエチヨウ夫妻が始めた在日ミャンマー人の子弟へのミャンマー語教育は、その後賛同者が増え2016年に「シュエガンゴの会」に発展する。日本で生まれ、日常生活では日本語しか話せない在日ミャンマー人子弟に、幼いうちにミャンマー語を教えておかないと、一生ミャンマー語が話せないミャンマー人になってしまう危機感からだった。また、ミャンマー語教育を通じ次の世代がミャンマーの文化に親しみ継承するとともに、日本人との交流の場を提供し、両国民の将来の相互理解を深める架け橋となってほしいとの願いが込められている。。
シュエガンゴとはミャンマーの花ガンゴに、ミャンマー人が大好きな金(Gold)のシュエを加えた造語である。(添付写真の花弁が白い花がガンゴ。黄色の花は国花のパダウ。4月に僅か1日だけ咲く儚い花です)
現在、下は4才から上は10才まで10人のこどもたちが、毎週土曜日の午後「ルビー」に隣接する「ケヤキハウス」でミャンマー語教育を受けている。先生は奥様のヌエヌエチヨウさんを含め3名。教育担当は奥様のヌエヌエチヨウさん。ミャンマーでの高校教師の経験を生かして、異国で暮らすミャンマー人のこどもたちへ母国の言葉を忘れないよう、さながら「ミャンマーの寺小屋教育」で教えている。数か月前に会員になった私は昨日初めて「シュエガンゴの会」に参加した。第2回では日本という異国で暮らすミャンマー人のこどもたちについて報告したい。
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