2022年12月16日10時52分掲載
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コラム
異論を厭う文化が両論併記を生む 〜異論はあって当たり前 大切なのは異論同士のつながり〜
異論を厭う文化が両論併記を生む、とは何が言いたいのか?変なタイトルになりましたが、要は両論併記は逃げに過ぎなくて、論を咬み合わせていなくてあくまで「併記」に過ぎない、ということだと思うのです。
前に私は赤旗は野党連合が与党になった時こそが、赤旗にとっては試練の時になるだろう、と書きました。赤旗は桜を見る会などで画期的な取材を行い、スクープを取ってきましたが、権力を監視するという意味では共産党が政権に参画した場合に、対自民党で行ってきたような果敢なジャーナリズムができるのか?ということにあります。野党共闘を勝利させるためには、そこが要するに、今後のテーマになるのではないでしょうか。政治は選挙に1回勝つことが目的なのではないからです。
1つの媒体の中に、対立する視点を持った記事が併存し、時には議論を戦わせあう、そういう作業から、現実が立体的に浮かんでくるのではないかと私は思っています。他人の記事に対して、批判的な記事を書いたとしても、それは相手を否定したり、つぶしたりということが目的ではなく、相手の記事が何に基づいているかをより精査し、理解するための作業です。しかし、日本のメディアでは朝まで生テレビみたいに、「わー」と大きな声を出して相手をぶちのめす的な演出が普通なので、異論を出すと「和を乱すな」とたしなめられます。しかし、和を乱すのではなくて、ポリフォニーであり、多様な声がそこに出てくるのであり、そうした総合の中にこそ社会があるのだと私は思います。権力闘争のプロセスではないのです。
異論が出るのは当人にとっては不快でしょうが、それが単に相手をつぶすために嘘でもなんでも厭わないような喧嘩ではなく、真摯なものであれば、むしろ異論をしかけられた人にとっても、自分の記事に欠けていた視点を見つめ直し、それをより強固なものへと改善していける機会ではないかと私は思っています。この作業は楽ではないでしょうが。家父長制社会では異論は家父長への反逆という風に受け取られてしまいます。つまり個々の論客への異論を越えてその和に対する脅威と受け取られます。先進国の間では国民の政府への要求水準が異常に低い理由もここにあります。
前に私は民主主義にとって大切なことは個々の政党や個々の議員の良しあしよりも、まずその前に民主主義のストラクチャーが大切だと書きました。それは二大政党制を作るための選挙制度改革だったのなら、なぜ二大政党制がゆがんでいるのか、と言ったことと関係します。一党独裁は右であれ、左であれ、権力のチェックが効かないという点で悪しきものに他なりません。1つの政党は1つの価値観にトップダウン的に従え、1つのメディアは1つの価値観にトップダウン的に従え、ということだと、結局、そのようなグループは活気が乏しくなり、イエスマンだけのつまらないものになると思います。もちろん、一定の共通の方向性があるからこそ、党なり媒体なりが形作れるのでしょうが、その中にも様々な思考や事実の拾い上げがあってしかるべきです。
私はネットは議論にはあまり向いていなくて、議論はリアルな討論会でやる方が実りがあると思っていますが、少なくとも両論併記という並列ではなくて、議論していなかったとしてもいろんな見解が出てきて、それぞれの論なり現実の分析なりを戦わせて、真実がどこにあるのかを探し続ける、ということは大切だと考えています。両論併記は論を戦わせず、顔を合わせず、それぞれ一方的に自説を開陳するのみです。逆に議論でなかったとしても、相手を意識した論はそこにコミットメントがあり、それゆえに自分の論ですら修正を余儀なくされる可能性を持つものです。そうやって打たれては修正し、より深いものにしていく歩みを持つことが大切だと思っています。
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