2023年01月11日09時56分掲載  無料記事
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アジア

ミャンマー「夜明け」への闘い(3)非暴力「市民不服従」の抵抗運動開始 西方浩実

 クーデターの一報に衝撃を受けた頭で、次に考えたことは、どうしようもなく個人的かつ重大な問題だった。トイレットペーパーである。クーデターの噂が出た時に、念のため水や食料は数日分確保したのだが、うっかりトイレットペーパーを買い忘れていたのだ。そこで半分はトイレットペーパーのために、半分は怖いもの見たさに、恐る恐る地元の市場にでかけることにした。クーデター直後、2月1日朝7時頃だ。 
 
▽平穏な日常光景の裏に渦巻く憤怒 
通りに出て驚いた。普段とまったく変わらなかったのである。路線バスにはいつも通り、出勤するミャンマー人がぎゅうぎゅうに乗っているし、顔なじみのタクシー運転手が「ハロー、ジャパニーズ、どこに行くんだい?」と話しかけてくるのも同じだ。 
 
毎朝地元の人で賑わう市場は、いつも通り新鮮な野菜や果物が、ふだんと変わらぬ値段で売られている。この人たちは、まだニュースを知らないのだろうか。いや、口コミ社会のミャンマーで、この急転直下の一大事を知らないなんてあり得ない。母と敬愛するアウンサンスーチー氏が拘束され、悪名高い国軍が再び人々を支配する・・・それは一夜にして光が闇に変わるような衝撃であったはずだ。 
 
しかし、夕方にも懲りずに街に出てみたのだが、やはり人々は普段通り、平穏に生活をしているように見えた。市場やスーパーは時間を短縮していたが、十分に品揃えがあり、屋台も営業している。試しにATMにカードを入れてみると、すんなりと現金をおろすことができた。あれ、「クーデター」って何だっけ?もっと社会に混乱を引き起こすものじゃなかったっけ?私は首をかしげながら帰路についたのだった。 
 
私が感じた平穏が、かりそめの光景であったことを知ったのは、一夜明けた2月2日のこと。遮断されていたインターネットが繋がるようになり、同僚たちと朝のオンラインミーティングを開いたときだった。画面上に映ったミャンマー人の同僚の顔を見て、私は思わず息を飲んだ。いつも朗らかで笑顔を絶やさないスタッフの顔つきが、能面のように無表情だったのだ。 
 
「昨夜は一睡もできなかった。ご飯も一口も食べられなかった」と彼女は言った。そしてクーデターについて何か言おうとするのだが、言葉が感情に追いつかず、涙をこらえて黙ってしまう。「今日はとても仕事にならない」と絞り出すように言った彼女に、そうだね、と頷くことしかできなかった。 
 
他の同僚や友人たちにも連絡をとった。電話の向こうで、友人は嘆き、悔しがり、そして怒っていた。「僕らは絶対に軍政を認めない!絶対に、だ!僕らが選挙で選んだ政府は、NLDなんだ。選挙に不正なんてない。ただの言いがかりだよ。・・・ミンアウンフライン(国軍総司令官)なんて、ぶっ殺してやりたい」。 
 
彼の言葉に、市民の暴動を連想した私は、おそるおそる彼に尋ねた。「今のところ、街はとても落ち着いているように見えるんだけど・・・これから何か起きるのかな?」 
彼はこう答えた。「僕たちには、抗議活動はできない。僕らがデモをして、万が一それが暴徒化すれば、軍は“治安維持”という名目で武力弾圧してくるだろう。奴らはそのために、僕らを挑発して、暴動を起こさせるんだ。僕たちの人生はミャンマーが民主化する10年前までずっと、軍事政権下にあった。奴らのやり方は、嫌というほど知っている。だから、どんなにはらわたが煮え繰り返っても、それを実際の行動で示すことはできないんだよ」 
 
「ぶっ殺してやりたい」ほど怒っていても、抗議をすれば弾圧の理由を与えてしまうから動けない・・・では、耐えるほかないのだろうか。「それじゃ、どうするの?」おずおずと聞くと、彼は予想外の答えを口にした。「インターネットで闘う」。そして「Facebookを見てみなよ」と言った。 
 
▽「ミャンマーを救え!」先頭に立つ公務員 
ミャンマーでは「ンターネット=Facebook」と言っても過言ではなく、スマホユーザーのほぼ全員がFacebookを使っている。何か調べたいときも、GoogleではなくまずFacebookの検索バーで検索するほどで、もはや情報のプラットフォームと言っても過言ではない。 
 
電話の後、さっそくFacebookを覗いてみると、彼の言った通り、そこではすでにミャンマー市民の抵抗運動が始まっていた。 
#Save_Myanmar 
#Reject_Military_Coup 
 
Facebookには、そんなタグがついた投稿が次々に投稿されていた。そこには「絶対に軍を認めるな」「暴力を使わずに戦おう」など決意表明のような切実な言葉が綴られ、その数が分刻みで積み上がっていく。 
そうした投稿の中で、ある一つのタグが目に止まった。 
#Civil_Disobedience_Movement 
市民的不服従、略して「CDM」。 
 
このタグとともに投稿されていたのは、白衣を着た医療者や、緑色のロンジー(ミャンマーの伝統衣装である巻きスカート)を履いた教師たちの写真。軍政への不服従を示す3本指を立てている人たちもいる。そして「私たちは公平な選挙で選ばれた政権の下でしか働かない」という決意の言葉。彼らは公立の病院や学校で働く公務員、つまり政府の職員だった。彼らは、選挙で勝った民主政権を乗っとった軍を政府とは認めず、逆に職務を放棄することで、軍による国家運営を止めようとしていたのだ。 
 
公務員が仕事をやめれば、この国の公共サービスは止まる。病院、学校、銀行、鉄道・・・すべてが機能不全に陥る。そうなればもちろん、市民たちは困る。だが軍にとっても、国家運営ができなければその支配は立ちゆかない。それこそが市民たちの狙いだった。人々は自分たちの犠牲を承知で、軍政にプレッシャーをかけ、軍側の譲歩を引き出そうとしていたのだ。 
 
驚いたことに、彼らはFacebook上に、顔だけでなく氏名や所属先まで公開していた。職場である公立病院の前で、3本指を掲げて集合写真を撮っている人たちもいる。つい数年前までの軍政下では、政権批判など許されず、軍政に逆らおうものならすぐに治安部隊がやってきて、拘束されるのがオチだった。その時代をよく知る人々が、今こうして反軍政の姿勢を明らかにして、正々堂々と立ち上がっているのだ。なんという勇気だろう。スクリーン越しに思わず「すごい…」と呟く。鳥肌が立っていた。 
 
CDMに参加表明した公務員たちの投稿に対しては、無数のFacebookユーザーが“いいね”ボタンを押し、「ありがとう」「あなた方を誇りに思います」などの称賛のコメントが秒単位で更新されていった。さらに「公務員たちはみんなCDMに参加して」と公務員らの決意を後押しするコメントも次々と投稿された。 
 
個人的に衝撃的だったのは、このCDMが「医療者」から始まったことだった。ミャンマーでは日本と違い、ほとんどの病院が公立病院である。そのため、公立病院の医療者がストライキを起こすと、ミャンマーの大多数の人々が医療へのアクセスを失うことになる。人命を救う医療者たちは、本来、最後まで仕事を続けるべきではないのだろうか? 
この疑問には、数ヶ月後に知人の医師(30代)が答えてくれた。「クーデター直後、すぐに医療CDMが始まったのは、専門職である医療者には代わりがいないからだよ。僕たちが働くのをやめると、国中で非常に重大な問題が起きる。だから、すぐに事態を変えられると思ったんだ」 
 
この意図を、患者たちもよく理解していた。入院患者のケアのため病院に残った数少ない医療者たちがCDMに参加できるよう、多くの患者たちが自主退院してこれを支えたのだ。(なお、急患や重症患者のために病院に残らざるを得なかった医療者の多くは、反軍政を示す赤いリボンを胸元につけて働いていた。) 
 
CDMで病院を去った医療者たちも、今度は逆に、そうした患者たちを支えるべく、Faacebookにこんな投稿を上げ始めた。「○○地区で体調が悪い人は、私が診察しに行きます。電話番号は・・・」。病院はもはや機能しない。けれど医療者たちは決して患者を見捨てたわけではなかったのだ。 
 
民間紙イラワジには、クーデター翌日、CDMに参加した医師のこんなコメントが掲載された。「私たちが医療を通して救えるのは一部の患者の命だけ。しかしクーデターに対して沈黙を貫けば、軍政下で毎日何百人もの希望が失われるだろう」 
 
これに対し、軍の関係者は個人のFacebookアカウントで「軍にだって医者はいる。君たちがいなくても十分やっていける」などとうそぶいたという。この投稿を見た同僚は「そういう奴らなんだ」と、吐き捨てるように言った。 


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