2023年05月06日06時54分掲載  無料記事
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コラム

本の文明とデータの文明

  20世紀の終わりから今世紀の最初のほぼ四半世紀に人類の文明はいろんな面で大きく変化を遂げました。本の文化もその1つでしょう。紙の本は次第にデジタル書籍へと変わりつつあります。また、町のリアルな書店がどんどん消滅しつつあります。これは、単に本の消費のされ方が紙の本からデジタルというデータの集積に移行した、というだけの変化なのでしょうか。 
 
  私の経験で言えば、デジタルで本を読む機会は確実に増えています。しかし、紙の本と比較すると、紙の本に圧倒的に愛着を持っています。それは本の中身の質とは別なのです。紙の本=物体としての本は重さがあり、色も形もあり、それらがコンテンツと一体化しています。データだけではなく、手触りやデザインなども含めて本を享受しています。で、それはレゴのブロックのように、本棚に積み上げていけます。 
 
  紙の本の最大の特徴がこの積み上げていける、あるいは並べていけることにあると思っています。紙の集積を1つ1つ重ねているわけですが、同時にコンテンツを重ねてもいます。本の中にある様々な概念や知識、感情や表現も紙という器に盛られて、現実に集積されていきます。このようにして現実に集積された場合の方が、内容が頭に残りやすいということはないのかな、と思うことがあります。そのことに対して確信はまだないのですが、電脳空間で読んだものでも鉛筆でノートにメモしたりすると別でしょうが、そうではない場合、端末のスイッチを消した瞬間に読んだ内容の大半も雲散霧消してしまう気がします。デジタル本とデジタル本を「積み上げる」というのが本当に可能なのか、と思ってしまいます。つまり、そのコンテンツ同士は紙の本と同様に内容を積み重ねていくのに適しているのだろうか、という疑いです。ただ、このように書いたところで、本当のところ私自身は結論は持っていません。 
 
  たとえば、縄文式土器を博物館で目前にした時に、圧倒的なマテリアルの力に魅惑されることがあります。論理とか理屈ではなく、人類が長い間、モノに魅せられてきたことと無関係ではないような気がするのです。宗教とか美学の領域かもしれません。デカルトは『方法序説』で、合理的に考える方法を述べていますが、近代的な思考は積み上げていく思考だと思えます。1つ1つ確実なことを積み上げていく方式です。これはスイッチを切ると霧消してしまうスタイルとどこかなじまないのではないかと感じてしまうのです。 
 
  デカルトが「方法序説」*で示したその方法とは簡単に言えば以下の4つ。 
 
1)疑いの余地もないほどはっきりしたものでなければ判断の中に取り入れないこと 
2)複雑な問題は小さく分けて1つ1つ考えること 
3)一番単純でわかりやすい問題からはじめて、階段を上るように最も複雑な問題に進んでいくこと 
4)もれなく対象を考えたかどうか列挙してみて、漏れがなかったかどうか見直しを怠らないこと 
 
  デカルトの方法は、珍しい鉱物とか、昆虫標本を集めていくようなタイプの、具体的にモノを集めるコレクター的な思考に属するのではないでしょうか。私が古い世代に属するからかもしれません。ただ、デカルトが言っているような「漏れなく」とか、「疑いの余地もないほど」とか、そういうのは、実際に物を目の前にしていないとなかなか確信が持てないのではないかと感じられるのです。確かに、電脳空間の中にチャート図のように概念や知識を積み上げていくことは可能でしょう。でも、スイッチを切ると消えてしまうのです。この消えてしまう、というところに不安を感じるのかもしれません。「疑いの余地もない」物には、いつも手元にあってほしい、という思いが残ります。 
 
  そんな私でも何年か前から紙の新聞はやめてデジタルの新聞を3つ購読しています。紙で3紙も購読すると、1か月もするとマテリアルとしての新聞がたまって部屋を居心地の悪いものにしてしまいます。昔はそれらの切り抜きをスクラップしていたものですが、今ではスクラップしなくても簡単にリンク集を作っておくと、いつでも読むことができます。新聞に関してはむしろデジタルになじんでしまっています。過去の記事も検索しやすいです。しかし、こと本に関してはこのようなすっきりした肯定感を持つことができません。(実は新聞にしても、未だ紙への愛着が全くなくなったわけではありません)しかし、その一方でマテリアルとしての本は堆積すると部屋を息苦しいものにしてしまうのは確かです。 
 
  デジタルで学ぶ知識と紙の本で学ぶ知識とで、質や量の差異がないのかどうか。また、町にリアル書店がなくなったことで〜ネットでいつでもどこでも本が買えるとしても〜町の人々の教養や知識は影響を受けないのか。こういう研究が、もし世界のどこかでなされていたなら、ぜひその研究を知りたいと思います。私はこの文章を、予定調和な、結論が最初にありきで書いたわけではありません。ただ、普段もやもやと感じていたことを書き記してみました。長い間に築かれてきた町の施設や教育・文化の媒体が革命的な変化にさらされています。その割には、それが人間にもたらす影響を研究しているものに触れる機会がなかなかないのが不思議です。 
 
 
 
*「方法序説」(山田弘明訳 ちくま学芸文庫)を参照した。 
 
 
■デカルト著「方法序説」 〜近代を考える〜 
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