2023年06月10日14時17分掲載  無料記事
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入管

命のビザを繋いだ男・小辻節三 入管法改悪で思い出す外国人の人権を守り抜いた先人たち

 参院法務委員会は昨8日、入管法改悪案」採決を強行しました。この悪法の本質は、「日本に暮らす外国人の命を危険にさらす」ことにあります。国連人権規約委員会から国際法違反と指摘されているにも関わらずです。第二次世界大戦中、ナチス・ドイツに追われたユダヤ人6000人に対して、日本政府にさからって「命のビザ」を出した杉原千畝さんはよく知られています。この杉浦さんに加えて、日本に逃れてきたユダヤ人が、日本からアメリカに逃れて行くまでを支援した日本人がいたのです。「命のビザを繋いだ男・小辻節三」です。さらに、小辻を支えた人々がいました。「入管法改悪案」を強行した岸田政権と、強行採決に賛同した自民・公明・維新・国民各党は、杉浦千畝、小辻節三はじめ、外国人の人権を守り抜いた先人たちに、恥ずかしくないのか。(福島清) 
 
▽ナチスに迫害されたユダヤ難民を救った勇気 
 杉原千畝が日本通過のビザを発給し6000人ものユダヤ人を救ったという話はあまりにも有名だ。しかし、そのユダヤ難民がどのようにして日本にたどり着き、その後、アメリカなどに渡って行ったかを知る人は少ない。しかも、彼らの逃避行を助けたのが、現在の「日本交通公社」の前身であるジャパン・ツーリスト・ビューローであることもほとんど知られていない。私も全く知らなかったが、それについての資料がほとんど発表されていなかったのも事実だったと思う。 
 今回、北出さんが偶然目にとめ、歴史的「秘話」をまとめて本書を世に出したことの意味は絶大である。改めてユダヤ難民を輸送したJTB(日本交通公社)の果たした役割の重みを知ることができた。北出さんのふとした義心から出発した調査は、杉原千畝のその後に繋ぐ敦賀の難民を救う「小辻節三」への架け橋につながる功績である。 
 北出さんが日本政府観光局(JNTO)に勤務していた。ある日、JTBから送られてきた『日本交通公社七十年誌』を何気なく読んでいたとき「ユダヤ人渡米旅行の斡旋」のところで「大迫辰雄」の名前を偶然発見する。日本政府観光局に入社した1966年のこと、この年、JNTOでは新しい事業をたちあげ、JTBの大迫さんはその責任者として出向してきた。新入社員の北出さんは、その下で働くことになった。入社2年後には北出さんは仲人までしていただいた上司だった。 
 しかも、JTBが関わった持った。1940年。それは1本の電話から始まった。この依頼を受けたのがジャパン・ツーリスト・ビューロのニューヨーク事務所だった。「こちらはウォルター・ブラウンという旅行社。ナチス・ドイツの迫害によって命を脅かされているユダヤ人を救い出すための協力をしています。現在残されているルートは、シベリヤ鉄道でウラジオストックまで行き、日本を経由してアメリカに渡るというものでこれが最後の手段です。彼らの輸送を手伝ってもらえないだろうか」。戦時下、日独伊三国同盟が締結、国内はドイツ一辺倒の中、これは難しい選択だったに違いない。でも、それを乗り越え救出にゴーをかけた同社は杉原と同じくらい勇気のいる決断だったに違いない。 
 こうした情勢下で、公社の1員として活躍した多くの人物が、北出さんの口から登場する。真っ先に挙げたのが大迫辰雄氏(同公社職員、ユダヤ人渡米旅行の斡旋での中心的存在)。朝鮮系の人、ユ・ハジュン(北出氏が畏敬する人物)、高久甚之助(ジャパン・ツーリストの育ての親)、樋口季一(ハルピン特務機関長、東条英機参謀長と渡り合う)、岩田一郎(ニューヨーク事務局長)。そして牧師の齋藤源八(神戸市灘区)の諸氏ら、輝きに満ちた名前が紹介されている。 
 ところで、ビューローのニューヨーク事務所からの請訓の電報が来たとき、本社では「ユダヤ難民の輸送」を受けてよいか激論が戦わされたが、人道的見地から引き受けるべし、との結論になる。が、そのころ同盟国のドイツや外部(国)からの圧力もあったが、それらを押しのけ決断に踏み切ったJTBは称賛されていい。 
 幸いだったのは、ビューローの最高責任者が高久甚之助氏だったこと。昭和3年(1928年)、ビューローの第3代幹事(後の職制改正で専務理事)に迎えられたのが高久甚之助氏だった。高久氏は明治19年生まれ。東京外語大を首席で卒業。「高等文官試験」合格後アメリカに留学、ペンシルバニア大学で MBA(経営学修士)を取得。留学中はユダヤ人の苦難の歴史を学んだろうし、ユダヤ人学生と交友もあっと思われる。日露戦争を日本が遂行できたのもヤコブ・シフというユダヤ人銀行家の資金援助があったことも高久氏は当然知っていたはずだ。その意味で「ユダヤ難民救助」に貢献したのは確かであろう。 
 問題はこれからだった。JTBも無料で引き受けたわけではない。難民の輸送を依頼したトーマス・クック社からの保証金は1人あたり240円だった。難民の中には裸一貫で無一文の者もいたし、それをどうするか。ウラジオストックから敦賀まで船で輸送する手配。日本海の荒海で船酔いや病人、食料などの対応も大変だったろう。最も面倒だったのが乗船時の見慣れない文字や名前の名簿の確認作業など、細かい仕事が山積していた。これら現地での業務を一手にやったのが大迫氏を中心にしたメンバーだった。このように難しい状況に中で民間人の心ある人たちが沢山いたことを私たちは誇りにしていいと思う。 
▽命のビザを繋いだ男・小辻節三 
 2013(平成25)年10月、毎日新聞の記者・布施広氏が山田純大氏が書いた「命のビザを繋いだ男 小辻節三とユダヤ難民」の本を紹介している記事を見て、早速本を購入した。内容が素晴らしかった。 
 小辻節三は「ユダヤ人の恩人」とされながら杉原千畝ほど知られていない。氏は日本人初のヘブライ語の文法書を出版したり、第二次大戦前に満州で開かれた「極東ユダヤ人大会」では流暢なヘブライ語で演説をしている。 
 また、戦時中も「ユダヤ民族の姿」(目黒書店刊)で反ナチスを訴え日本国中を講演して廻っていた。こうしたことが縁で、後の神戸、敦賀市のユダヤ人難民救出に繋がるわけだが、同時にこれらの行為が彼の身の上に危険が迫ることにもなる。 
 1940年代初頭、神戸、敦賀の町は迫害を逃れたユダヤ人の一大居留地になっていた。杉原ビザで約6000人とも言われるユダヤ人が日本にやって来た。だが、滞在期限はわずか10日間。ビザの無い者や無一文の者もいる。まず、宿泊の問題と食糧の確保、ピザの延長や生活習慣の違いから起こるトラブルも絶えない。ある時、難民の中に、小辻節三が鎌倉に在住していることを知り、代表の二人が鎌倉に彼を訪ね、窮状を訴え「ぜひ手を貸してほしい」と懇願に来る。この日をきっかけに、小辻は鎌倉で静かな学究の日々を送っていたが、生活が一変する。実のところ小辻は敦賀におけるユダヤ難民のことを薄々知ってはいたが、現地に行ってみてこれほどひどいとは思っていなかった、と述懐している。それからは死に物狂いの毎日だった。最大の問題は10日間と限られたビザの延長だった。最後の手段が外務省の松岡洋右に懇願することだった。話は遡って、小辻と松岡の関係を述べておかなければならない。 
 
▽松岡洋右との出会いが転機に 
 1938年(昭和13年)、小辻の元へ満鉄(南満州鉄道)総裁の松岡洋右から招聘状が届く。「総裁のアドバイザーとして満鉄で働いてほしい」というものだった。「満鉄」は日本の国策会社で鉄道事業にとどまらず探鉱、製油、港湾などのほか市街施設、病院、学校、図書館など経営し一つの政府機関のような役割を果たしていた。総裁がなぜ自分を必要にしているのか理解できなかった。松岡は小辻の本を読んだり、満州におけるユダヤ問題の取り組みに当たって力を貸してほしい、ということだと分かった。 
 小辻は聖書の研究、学究の日々だったので、今の生活に満足していた。最初は断っていたが松岡はそれでも諦めず、最初に提示した月給300円から350円、さらに上乗せして500円までになっていた。満鉄の人事課が拒否したほどの高額だった。小辻は考えた。「こうして断り続けることが良いことなのだろうか」。満州にもナチスドイツやロシアによるユダヤ人迫害から逃れたユダヤ人が沢山いるはず。そのユダヤ人のために自分が役立つならば、それが今ではないか。小辻は決心して、家族で満州へ移住。松岡の下で2年ほど働いた1938(昭和13)年、松岡が総裁を退任すると、小辻も同時に辞めて帰国している。 
 小辻が重大な使命をもって外務省に松岡を訪ねるが、この時、松岡は外務大臣になっていた。満鉄時代のよしみで面会はできたが、ビザの延長では拒否された。松岡の立場からすれば当然だった。しかし、ある秘策(ヒント)を与えてくれた。ところで、松岡と言えば1933(昭和8)年、国際連盟が採択した満州からの日本軍撤退勧告案を蹴って国際連盟から脱退した人物である。外相になってからは「日独伊三国同盟」を締結するなど戦争を推し進めた剛腕政治家のイメージがある。しかし、小辻は松岡を評して「心の優しい人物」とし、ナチス・ドイツと協定を結んでいながら、ユダヤ人に対する姿勢は正しかったと書いている。 
 ところで、その「秘策」とは。当時は現在の入国管理局はなく、外国人のピザの扱いはそれぞれの自治体に任されていた。実際に滞在許可を発行する窓口は警察署だった。一筋の光明が見えた小辻だったが、相手が警察では真っ正面からビザの延長を申し込んだところで取り合ってくれないだろう。役人を買収するのが一番簡単な方策だが、宗教家としての倫理観からできない。そこで考えたのは役人と友になり、親しくなって願いを叶えてもらうことは贈賄にはならないという 
小辻流の発想であった。それには資金が必要だった。 
 小辻が資金面で頼れる人物が一人いた。小辻の姉の夫で大阪に住んでいる資産家の飯井氏だった。小辻はユダヤ難民のことを一気に話し終わると、話を切り出した。 
「私は大切な友達を助けたいのです。彼らは私の力を必要としています」。「お金が必要ということか」。小辻はきっぱりと「はい、私のためではなく人間の命のためです!」。飯井氏は暫し考え込んだ後「一晩考えさせてくれ」。 
 翌朝、小辻の前に当時としては大金で30万円(現在の金額で4800万円)が置かれた。驚く小辻に対して「これは私が人間の命のために私が使う金だ」。小辻は義兄に心から感謝してそのお金をもって神戸に向かった。小辻はそれから計画通り警察の幹部を一流の料亭に招待しては信頼関係をつくる。3度目の宴席でピザの延長について初めて相談を持ち掛け計画は見事、成功する。 
 
▽スパイ容疑で憲兵隊が拷問 
 小辻はユダヤ人難民の救出に携わってからの生活は毎日が死に物狂いの連続だった。小辻にとっては1銭の得にもならない行為であったが、小辻の行動が目立つようになると、軍からは疑いの目で見られていた。あるとき憲兵隊本部から、ただスパイ容疑というだけで出頭命令が下る。小辻は死を覚悟していた。憲兵副隊長による拷問は凄まじかった(本文では詳しく列記。省略)。 
小辻の意識は朦朧、気力は限界を超えていた。その時ドアが荒々しくあけられ一人の男が入ってきた。「何をやっているんだ」。小辻には聞き覚えのある声だった。男は副隊長を怒鳴り付け、彼を部屋の外へ追い出すと「小辻さん、ここで何をやっているんだ」。小辻には懐かしい顔だった。満州で家族ぐるみの交流のあった憲兵隊のシマハラ・ヨシノリだった。「もっと早く知らせをうけていたら……、すまなかった」。小辻は安堵のあまりその場に彼の胸に崩れ落ちた。 
 1945年(昭20)年6月、終戦の2か月前、小辻一家四人は鎌倉の家を離れて満州に向かう。ナチスや官憲から我が身を守るためだ。暗殺者のリストに小辻の名前が記されているのを知り、身の危険が迫っていた。 
 ところで先の日本交通公社と同様、小辻の周りにも数々の善人が登場する。たとえば、「ウラジオストックから日本へ行くユダヤ人の上船を許可しないように」という外務省の訓令を突っぱねた駐ウラジオストック日本領事館の根井三郎(最近毎日新聞が報道=文末に掲載)。そのほかでは石橋湛山、松岡洋右らもここでは良き理解者として描かれている。 
 開戦の前年12月までにユダヤ人難民全員を日本か 
ら脱出させることができた。すべてのユダヤ難民を希望の国に届けた小辻の大きな功績に対し、ユダヤ人は心から感謝した。しかし、小辻は自らの功労を人前で喧伝することはなかった。自伝の中でこう語っている。 
 苦境に立たされていたユダヤ難民に対する日本の善意は自慢に値するものではない。しかし、ナチスから圧力をかけられていた当時の日本であったにもかかわらず、ユダヤ難民が無事日本を通過できたということは喜ばしいことであった。 
 あくまで自分の手柄ではなく、日本人の善意によってユダヤ難民は救われたのだと小辻は言う。結論を急ごう。杉原ビザが発給され6000人というユダヤ難民を日本にまで運ぶには日本交通公社、日本郵船の協力が欠かせなかった。さらには日本に着いてからの神戸や敦賀の町が難民を受け入れ、難民の食糧や寝場所の世話、ビザの延長などに奔走した小辻をはじめ多くの協力者があったことも忘れてはならない。 
「義を見てなさざるは勇なきなり」、小辻が亡くなる寸前まで自らの行動規範としていた言葉だ。日本人初のユダヤ教高位聖職者(ラバイ・アブラハム)小辻節三博士。杉原と共にユダヤ人の恩人と呼ばれた小辻の墓はエレサレム近郊で安らかに眠る。 (宮田貞夫・毎日新聞OB) 
 
◎参考文献 
『命のビザ、遥かなる旅路』杉原千畝を陰で支えた男たち(交通新聞社新書)北出明・著 
『命のビザを繋いだ男』小辻節三とユダヤ難民 (NHK出版)山田純大・著 
『六千人の命のビザ』(朝日ソノラマ)杉原幸子 
『孤立する大国ニッポン』(TBSブリタニカ)ゲルハルト・ダンプマン著 
『毎日新聞』コラム「ユダヤ人迫害と日本」「アブラハム小辻氏」布施広・記者 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
杉原千畝が日本通過のビザを発給し6000人ものユダヤ人を救ったという話はあまりにも有名だ。しかし、そのユダヤ難民がどのようにして日本にたどり着き、その後、アメリカなどに渡って行ったかを知る人は少ない。しかも、彼らの逃避行を助けたのが、現在の「日本交通公社」の前身であるジャパン・ツーリスト・ビューローであることもほとんど知られていない。私も全く知らなかったが、それについての資料がほとんど発表されていなかったのも事実だったと思う。 
今回、北出さんが偶然目にとめ、歴史的「秘話」をまとめて本書を世に出したことの意味は絶大である。改めてユダヤ難民を輸送したJTB(日本交通公社)の果たした役割の重みを知ることができた。北出さんのふとした義心から出発した調査は、杉原千畝のその後に繋ぐ敦賀の難民を救う「小辻節三」への架け橋につながる功績である。 
 北出さんが日本政府観光局(JNTO)に勤務していた。ある日、JTBから送られてきた『日本交通公社七十年誌』を何気なく読んでいたとき「ユダヤ人渡米旅行の斡旋」のところで「大迫辰雄」の名前を偶然発見する。日本政府観光局に入社した1966年のこと、この年、JNTOでは新しい事業をたちあげ、JTBの大迫さんはその責任者として出向してきた。新入社員の北出さんは、その下で働くことになった。入社2年後には北出さんは仲人までしていただいた上司だった。 
 しかも、JTBが関わった持った。1940年。それは1本の電話から始まった。この依頼を受けたのがジャパン・ツーリスト・ビューロのニューヨーク事務所だった。「こちらはウォルター・ブラウンという旅行社。ナチス・ドイツの迫害によって命を脅かされているユダヤ人を救い出すための協力をしています。現在残されているルートは、シベリヤ鉄道でウラジオストックまで行き、日本を経由してアメリカに渡るというものでこれが最後の手段です。彼らの輸送を手伝ってもらえないだろうか」。戦時下、日独伊三国同盟が締結、国内はドイツ一辺倒の中、これは難しい選択だったに違いない。でも、それを乗り越え救出にゴーをかけた同社は杉原と同じくらい勇気のいる決断だったに違いない。 
 こうした情勢下で、公社の1員として活躍した多くの人物が、北出さんの口から登場する。真っ先に挙げたのが大迫辰雄氏(同公社職員、ユダヤ人渡米旅行の斡旋での中心的存在)。朝鮮系の人、ユ・ハジュン(北出氏が畏敬する人物)、高久甚之助(ジャパン・ツーリストの育ての親)、樋口季一(ハルピン特務機関長、東条英機参謀長と渡り合う)、岩田一郎(ニューヨーク事務局長)。そして牧師の齋藤源八(神戸市灘区)の諸氏ら、輝きに満ちた名前が紹介されている。 
 ところで、ビューローのニューヨーク事務所からの請訓の電報が来たとき、本社では「ユダヤ難民の輸送」を受けてよいか激論が戦わされたが、人道的見地から引き受けるべし、との結論になる。が、そのころ同盟国のドイツや外部(国)からの圧力もあったが、それらを押しのけ決断に踏み切ったJTBは称賛されていい。 
 幸いだったのは、ビューローの最高責任者が高久甚之助氏だったこと。昭和3年(1928年)、ビューローの第3代幹事(後の職制改正で専務理事)に迎えられたのが高久甚之助氏だった。高久氏は明治19年生まれ。東京外語大を首席で卒業。「高等文官試験」合格後アメリカに留学、ペンシルバニア大学で MBA(経営学修士)を取得。留学中はユダヤ人の苦難の歴史を学んだろうし、ユダヤ人学生と交友もあっと思われる。日露戦争を日本が遂行できたのもヤコブ・シフというユダヤ人銀行家の資金援助があったことも高久氏は当然知っていたはずだ。その意味で「ユダヤ難民救助」に貢献したのは確かであろう。 
 問題はこれからだった。JTBも無料で引き受けたわけではない。難民の輸送を依頼したトーマス・クック社からの保証金は1人あたり240円だった。難民の中には裸一貫で無一文の者もいたし、それをどうするか。ウラジオストックから敦賀まで船で輸送する手配。日本海の荒海で船酔いや病人、食料などの対応も大変だったろう。最も面倒だったのが乗船時の見慣れない文字や名前の名簿の確認作業など、細かい仕事が山積していた。これら現地での業務を一手にやったのが大迫氏を中心にしたメンバーだった。このように難しい状況に中で民間人の心ある人たちが沢山いたことを私たちは誇りにしていいと思う。 
▽命のビザを繋いだ男・小辻節三 
 2013(平成25)年10月、毎日新聞の記者・布施広氏が山田純大氏が書いた「命のビザを繋いだ男 小辻節三とユダヤ難民」の本を紹介している記事を見て、早速本を購入した。内容が素晴らしかった。 
小辻節三は「ユダヤ人の恩人」とされながら杉原千畝ほど知られていない。氏は日本人初のヘブライ語の文法書を出版したり、第二次大戦前に満州で開かれた「極東ユダヤ人大会」では流暢なヘブライ語で演説をしている。 
また、戦時中も「ユダヤ民族の姿」(目黒書店刊)で反ナチスを訴え日本国中を講演して廻っていた。こうしたことが縁で、後の神戸、敦賀市のユダヤ人難民救出に繋がるわけだが、同時にこれらの行為が彼の身の上に危険が迫ることにもなる。 
 1940年代初頭、神戸、敦賀の町は迫害を逃れたユダヤ人の一大居留地になっていた。杉原ビザで約6000人とも言われるユダヤ人が日本にやって来た。だが、滞在期限はわずか10日間。ビザの無い者や無一文の者もいる。まず、宿泊の問題と食糧の確保、ピザの延長や生活習慣の違いから起こるトラブルも絶えない。ある時、難民の中に、小辻節三が鎌倉に在住していることを知り、代表の二人が鎌倉に彼を訪ね、窮状を訴え「ぜひ手を貸してほしい」と懇願に来る。この日をきっかけに、小辻は鎌倉で静かな学究の日々を送っていたが、生活が一変する。実のところ小辻は敦賀におけるユダヤ難民のことを薄々知ってはいたが、現地に行ってみてこれほどひどいとは思っていなかった、と述懐している。それからは死に物狂いの毎日だった。最大の問題は10日間と限られたビザの延長だった。最後の手段が外務省の松岡洋右に懇願することだった。話は遡って、小辻と松岡の関係を述べておかなければならない。 
▽松岡洋右との出会いが転機に 
 1938年(昭和13年)、小辻の元へ満鉄(南満州鉄道)総裁の松岡洋右から招聘状が届く。「総裁のアドバイザーとして満鉄で働いてほしい」というものだった。「満鉄」は日本の国策会社で鉄道事業にとどまらず探鉱、製油、港湾などのほか市街施設、病院、学校、図書館など経営し一つの政府機関のような役割を果たしていた。総裁がなぜ自分を必要にしているのか理解できなかった。松岡は小辻の本を読んだり、満州におけるユダヤ問題の取り組みに当たって力を貸してほしい、ということだと分かった。 
小辻は聖書の研究、学究の日々だったので、今の生活に満足していた。最初は断っていたが松岡はそれでも諦めず、最初に提示した月給300円から350円、さらに上乗せして500円までになっていた。満鉄の人事課が拒否したほどの高額だった。小辻は考えた。「こうして断り続けることが良いことなのだろうか」。満州にもナチスドイツやロシアによるユダヤ人迫害から逃れたユダヤ人が沢山いるはず。そのユダヤ人のために自分が役立つならば、それが今ではないか。小辻は決心して、家族で満州へ移住。松岡の下で2年ほど働いた1938(昭和13)年、松岡が総裁を退任すると、小辻も同時に辞めて帰国している。 
 小辻が重大な使命をもって外務省に松岡を訪ねるが、この時、松岡は外務大臣になっていた。満鉄時代のよしみで面会はできたが、ビザの延長では拒否された。松岡の立場からすれば当然だった。しかし、ある秘策(ヒント)を与えてくれた。ところで、松岡と言えば1933(昭和8)年、国際連盟が採択した満州からの日本軍撤退勧告案を蹴って国際連盟から脱退した人物である。外相になってからは「日独伊三国同盟」を締結するなど戦争を推し進めた剛腕政治家のイメージがある。しかし、小辻は松岡を評して「心の優しい人物」とし、ナチス・ドイツと協定を結んでいながら、ユダヤ人に対する姿勢は正しかったと書いている。 
 ところで、その「秘策」とは。当時は現在の入国管理局はなく、外国人のピザの扱いはそれぞれの自治体に任されていた。実際に滞在許可を発行する窓口は警察署だった。一筋の光明が見えた小辻だったが、相手が警察では真っ正面からビザの延長を申し込んだところで取り合ってくれないだろう。役人を買収するのが一番簡単な方策だが、宗教家としての倫理観からできない。そこで考えたのは役人と友になり、親しくなって願いを叶えてもらうことは贈賄にはならないという 
小辻流の発想であった。それには資金が必要だった。 
 小辻が資金面で頼れる人物が一人いた。小辻の姉の夫で大阪に住んでいる資産家の飯井氏だった。小辻はユダヤ難民のことを一気に話し終わると、話を切り出した。 
「私は大切な友達を助けたいのです。彼らは私の力を必要としています」。「お金が必要ということか」。小辻はきっぱりと「はい、私のためではなく人間の命のためです!」。飯井氏は暫し考え込んだ後「一晩考えさせてくれ」。 
 翌朝、小辻の前に当時としては大金で30万円(現在の金額で4800万円)が置かれた。驚く小辻に対して「これは私が人間の命のために私が使う金だ」。小辻は義兄に心から感謝してそのお金をもって神戸に向かった。小辻はそれから計画通り警察の幹部を一流の料亭に招待しては信頼関係をつくる。3度目の宴席でピザの延長について初めて相談を持ち掛け計画は見事、成功する。 
 ▽スパイ容疑で憲兵隊が拷問 
 小辻はユダヤ人難民の救出に携わってからの生活は毎日が死に物狂いの連続だった。小辻にとっては1銭の得にもならない行為であったが、小辻の行動が目立つようになると、軍からは疑いの目で見られていた。あるとき憲兵隊本部から、ただスパイ容疑というだけで出頭命令が下る。小辻は死を覚悟していた。憲兵副隊長による拷問は凄まじかった(本文では詳しく列記。省略)。 
小辻の意識は朦朧、気力は限界を超えていた。その時ドアが荒々しくあけられ一人の男が入ってきた。「何をやっているんだ」。小辻には聞き覚えのある声だった。男は副隊長を怒鳴り付け、彼を部屋の外へ追い出すと「小辻さん、ここで何をやっているんだ」。小辻には懐かしい顔だった。満州で家族ぐるみの交流のあった憲兵隊のシマハラ・ヨシノリだった。「もっと早く知らせをうけていたら……、すまなかった」。小辻は安堵のあまりその場に彼の胸に崩れ落ちた。 
 1945年(昭20)年6月、終戦の2か月前、小辻一家四人は鎌倉の家を離れて満州に向かう。ナチスや官憲から我が身を守るためだ。暗殺者のリストに小辻の名前が記されているのを知り、身の危険が迫っていた。 
 ところで先の日本交通公社と同様、小辻の周りにも数々の善人が登場する。たとえば、「ウラジオストックから日本へ行くユダヤ人の上船を許可しないように」という外務省の訓令を突っぱねた駐ウラジオストック日本領事館の根井三郎(最近毎日新聞が報道=文末に掲載)。そのほかでは石橋湛山、松岡洋右らもここでは良き理解者として描かれている。 
 開戦の前年12月までにユダヤ人難民全員を日本か 
ら脱出させることができた。すべてのユダヤ難民を希望の国に届けた小辻の大きな功績に対し、ユダヤ人は心から感謝した。しかし、小辻は自らの功労を人前で喧伝することはなかった。自伝の中でこう語っている。 
 苦境に立たされていたユダヤ難民に対する日本の善意は自慢に値するものではない。しかし、ナチスから圧力をかけられていた当時の日本であったにもかかわらず、ユダヤ難民が無事日本を通過できたということは喜ばしいことであった。 
 あくまで自分の手柄ではなく、日本人の善意によってユダヤ難民は救われたのだと小辻は言う。結論を急ごう。杉原ビザが発給され6000人というユダヤ難民を日本にまで運ぶには日本交通公社、日本郵船の協力が欠かせなかった。さらには日本に着いてからの神戸や敦賀の町が難民を受け入れ、難民の食糧や寝場所の世話、ビザの延長などに奔走した小辻をはじめ多くの協力者があったことも忘れてはならない。 
「義を見てなさざるは勇なきなり」、小辻が亡くなる寸前まで自らの行動規範としていた言葉だ。日本人初のユダヤ教高位聖職者(ラバイ・アブラハム)小辻節三博士。杉原と共にユダヤ人の恩人と呼ばれた小辻の墓はエレサレム近郊で安らかに眠る。 (宮田貞夫・毎日新聞OB) 
 
◎参考文献 
『命のビザ、遥かなる旅路』杉原千畝を陰で支えた男たち(交通新聞社新書)北出明・著 
『命のビザを繋いだ男』小辻節三とユダヤ難民 (NHK出版)山田純大・著 
『六千人の命のビザ』(朝日ソノラマ)杉原幸子 
『孤立する大国ニッポン』(TBSブリタニカ)ゲルハルト・ダンプマン著 
『毎日新聞』コラム「ユダヤ人迫害と日本」「アブラハム小辻氏」布施広・記者 


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