2023年06月27日09時18分掲載  無料記事
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文化

フランチェスコ・ロージ監督『遥かなる帰郷』(1997:原作はプリモ・レーヴィ作『休戦』)

  20世紀の1つの象徴とも言えるアウシュビッツ強制収容所から、ソ連軍に解放されてイタリアまで帰還の旅をする化学者プリモ・レーヴィの記録文学『休戦』を原作にした映画『遥かなる帰郷』は、1997年にイタリアの名匠フランチェスコ・ロージ監督によって作られた。主演はジョン・タトゥーロで、この映画では化学者を演じる彼の眼差しが重要な役割を果たす。というのも、アウシュビッツからなぜ自分たちは生還できたのか?他の人びとは死んだのか?という問いは、少なからずの生存者たちの心に残る問いかけであり、レーヴィはアウシュビッツでの体験を書き記すことが自分の生きる理由であると考えたようだ。そのことはこの映画でも描かれている。 
 
  レーヴィの帰郷の旅は、最初はオデッサから船に乗って地中海を渡る計画だったが、鉄道が未だナチスと戦争を続けていた赤軍の必要で随時、運航予定が変わり、結局、レーヴィを含むイタリア人の難民たちは陸路で帰還しなくてはならなくなった。イタリア人は昨日までムッソリーニの枢軸国側だったが、戦争末期には連合国側に鞍替えしたということもあり、人々は刻々と変化する状況の中で生き延びるために不断に周囲に目を凝らしている。こうした眼差しはもしかすると、大日本帝国崩壊直後に満州にいた経験をもとに描いた安部公房の初期の小説『終わりし道の標に』と通底するだろう。 
 
  イタリアでポスト・ネオレアリズモの監督と呼ばれたフランチェスコ・ロージ監督は、すなわち戦後のロッセリーニやヴィットリオ・デシーカなどのネオレアリズモの名匠たちの後を継ぐ映画人であることを示している。この映画『遥かなる帰郷』においては、単純に国籍で人間を断罪せず、一人一人の内面を重視していることがわかる。たとえば、迫害され解放されたユダヤ人同士の間に残された互いの間に横たわる敵意を見落としていない。アウシュビッツでナチスの親衛隊員に抱かれることで生き延びることができた一人のユダヤ人女性に対する同胞による厳しい断罪のシーンもそうである。さらには、帰還の列車がドイツに入った時のユダヤ人たちのドイツ人に対する眼差しと、それを浴びたドイツ人の一人が膝を屈して頭を下げるシーンもそうである。このドイツ人は戦勝国であるソ連軍によって強制的に労働させられていたのだが、ドイツの罪を背負ったかのような彼の動作はこの映画の見どころの1つでもある。 
 
  先ほどの断罪される女性を守ろうとするレーヴィは、こんなことを仲間に話す。アウシュビッツ強制収容所は、ユダヤ人同士の仲間に対するいたわりの心をつぶしてしまったのだ、と。生き延びるために一片の食べ物を奪い合う状態にさせられて、毎日生きることで次第に仲間同士が敵同士にされてしまう。これこそが、生き延びた人々の心に深い傷を与えていたようなのである。つまり、ガス室で殺すことは罪深いのだが、それ以上に仲間へのいたわりの心をつぶしてしまう精神の破壊こそがもっと根深い罪だということなのだ。これこそが強制収容所の本質であるとロージ監督はこの映画で描いているのである。 
 
  このシーンを見た時、状況の過酷さでは落差があるとしても、1990年代以後、失われた30年とも言われる長期不況の中で、日本人同士もまた生きるために一片のパンを奪い合い、仕事を奪い合い、ポストを奪い合い、その過程で敵同士にさせられてきたのではなかったろうかと思わざるを得なかった。昭和の戦後の時代は、日本人同士がこのように敵対しあったことはほとんどなかった。それは単に右左という風にイデオロギーが異なるというだけでなく、それ以前に互いに不信感を持ち、敵対しあう社会に変異していたのだと私は思う。日常生活の場で感じる不満や憤りをインターネットに吐き出しているのである。かつてなら、たとえ支持政党や主義が異なっていても、みな将来に対する希望があり、意見を異にする人に対してももっとおおらかでありえた。 
 
  この映画で描かれたレーヴィは、互いにいがみ合うのは、収容されたユダヤ人の罪ではないんだ、と語るのである。人間同士が戦わせられる、そのようなシステムを作った人間にこそ罪があるのだ、と。市民契約論の原点であるホッブズの『リヴァイアサン』によれば、それはもう社会とは言えない。万人の万人に対する戦いであり、野生状態と何ら変わらない。人間の社会はこのような状態であってはいけない、というのだ。もし文化史を専攻する学生がいたなら、大宅壮一文庫に行って1980年代末から2000年にかけて、活字メディアの言説を雑誌などで検証すれば、おそらく同胞同士が競争を余儀なくされる社会こそが優れた社会を作る、という言説にあふれていることがわかるだろう。 
 
  もう1つ、『遥かなる帰郷』で忘れ難いセリフがあるのである。それは帰還の途で知り合ったギリシア人が、レーヴィに対してなぜロシアには専制があるのかを問いかけるくだりだ。ギリシア人はこんなことを言う。ロシアにはアジアが入っているので、アジアは専制を受け入れるがゆえにロシアもまた専制が絶えないのだ、と。この言葉は今日のアフガニスタンや中国、ロシア、北朝鮮、さらに日本の状態を考えると胸に突き刺さる。単純に西欧人や白人の偏見と一蹴できない真理が潜んでいる言葉に思われる。アジア的専制、という概念はヘロドトスの『歴史』の時代から中近東から、すなわちペルシア以東のアジアには専制支配の文化があるとされ、西欧と政治文化が根本から違うと考えられてきた。私はこのセリフを聞いていて、アジアの人々が権力に対して隷従を余儀なくされるのは、アジア人の弱さに起因するのではなかろうか、と思った。全体主義やファシズムもまた一人一人の弱さが根にあるのである。 


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