2023年07月27日04時34分掲載
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コラム
芸術か、粗大ゴミか?
大阪府所蔵の美術品105点が地下駐車場で青いビニールシートで覆われるなど、粗大ごみ同様に置かれてたことを毎日新聞がスクープした。ツイッターにはたくさんの怒りの声が寄せられていた。確かに美術品がそんな扱いを受けていたと知った時、ショックを受けても不思議ではない。
しかし、不思議なことに、その記事を読む少し前に、僕はこんなジョークを友人たちに言ったことがあった。「美術の展示で、様々な美術作品の並びの間に5%くらい粗大ごみを混ぜてみたらどうだろう?」と。たとえば、古箪笥や古い工作機械や道路工事の古いドリルや鳥かご、古靴やタイプライター、骸骨模型やこうもり傘といったものだ。白熱灯や椅子、デスクトップパソコンや水道のホースなどでもいいかもしれない。もし、こういうものが現代芸術の間に置かれていた時、私たちはちょっと混乱してしまうかもしれない。美術と粗大ごみの違いは何だったか、と。たとえば、かつてデュシャンが男性用小便器をひっくり返して「泉」と命名して美術展に展示したことが美術史上のビッグニュースになったことがあった。
もし5%(でなくてもいいのだが)展示の中に芸術家が作ったものではない粗大ごみが置かれていた時、私たちは果たしてそれが粗大ごみであるのだと理解できるだろうか。あるいは、美術展で置かれている以上、そこに芸術家の深い創作意図を読み取ろうと立ち止まって考えるだろうか?私は、ちょっと立ち止まってみる、ということが大切なんじゃないかと思うのだ。最初から「これは美術品、あれは粗大ごみ」という風に知識として美術を見たら、面白さは半減だろう。もしかしたら、ゴミかもしれない、という疑いと賭けの感覚を持つことで、真贋を見極める感性が研ぎ澄まされることもあるのではなかろうか。今の時代、私たちはじっくり自分の目で見て、見極める習慣が乏しくなっていて、ともするとネットで得た情報で満足してしまう。さらにケータイで写真を撮ったらもう用はない、と言わんばかりだ。だから政治家の真贋を見極める力も乏しくなった。パンフレットの文字や印象だけで投票してしまう。そういう意味で、私たちは予定調和な展示、というものをちょっと変えてみたらどうか、と思うのだ。
展示会場の入り口でメモを渡して、出口で粗大ごみがどれだったか、そのナンバーを正しく当てたら、記念品を差し上げてもよいのだ。
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