2023年08月30日08時18分掲載
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コラム
近代劇とネット時代 〜今こそ近代劇が復権する時〜 日本の近代の始まりは今
ネット社会は2020年に始まったコロナ時代に、新しい段階に突入したのではないでしょうか。つまり、それまで対面して行っていた会議も、講義も、インタビューも、商談も、そのかなりがインターネットを使って遠隔でできるようになったことです。これは良い点もたくさんあると思いますが、困った点もあると思っています。1つ、例を挙げると、人間が場をリアル空間で共有していることが前提だった劇的空間が成立しなくなってきたのではないか?ということです。かつてなら人間同士、喧嘩もしたけど、仲直りもしたし、喧嘩を通して互いの理解を深めたりしてきた、という人類の歴史が断絶したのではないか、ということなのです。
それはZOOMではできないのか?と言えば、ちょっと答えを出すのは容易ではありませんが、相手が接続を断ってしまったら、もうそれまでですよね。でも、空間を共有していれば、すぐに消えたりはしません。追いかけて行って、話し合いを継続する可能性もあるわけです。その極まった対立葛藤の次にどうするか、ということの中に人間たるゆえんもあります。
近代劇はイプセンから始まったと言われますが、『人形の家』に描かれているように、常に登場人物たちの対立葛藤を基盤にしてきました。アメリカでイプセンの流れをくむアーサー・ミラーの『セールスマンの死』でも、アメリカ人の生き方をめぐって親子の考え方の違い、その葛藤が描かれています。喧嘩をして、相手に鋭く自分の思いをぶつけると同時に、相手からも厳しい言葉を浴びせられます。これはリアル社会の人間世界の常です。表層のつき合いではなく、本音でつきあおうとすると、どうしても意見や感覚の違いがあるもので、そこで違いが先鋭化してくる時があります。その時に、インターネットの接続を切れば、相手の存在を消せるのがネット世界でしょう。そこでは葛藤しながらも理解へとつなげていくしぶとい歩みが難しいのではないでしょうか。ツイッターのようなSNSの場合は、対立しあう人々は罵声を浴びせあうけれども真の理解に到達することは稀です。それはリアル空間が介在しないことが関係しているのではないでしょうか。
劇作家レジナルド・ローズの『十二人の怒れる男』は民主主義の教科書といってもよい戯曲で、映画化もされ、世界中の多くの人に民主主義の手触りを教えた作品と言えるでしょう。殺人事件をめぐる裁判の陪審員たちが狭い一室に閉じ込められて有罪か、無罪かを議論で判断します。この戯曲を成り立たせている要素は「一室」に陪審員たちが物理的に閉じ込められているということです。うっとおしいと心で思っても出ていくことができません。その意味で、空間を共有する、ということの意味はコロナ時代に至って、むしろ新しい価値を見出しつつあるという気がします。そこがネット言論社会との違いです。
しかも、ネット世界はリアル世界でないと同時にしばしば匿名の世界でもあります。顔のない相手との間には言葉とロゴスしか存在し得ません。しかし、空間を共有する人間同士であれば、それ以外の要素が介在します。相手の怒りを目にした時、人間は単に言語を受け取っているだけではなく、相手の顔や眼差しを受けているものです。相手が怒りに震える瞬間を目にすることもあります。それはSNSで罵声を一方的に発信しただけでは体感できないものです。たとえ言葉の上での対立が解けなくても、どこかで相手の存在を認める、ということもありえます。それはまさにリアル空間ならではのことだと私は思います。これこそが近代劇を成立させているものでしょう。
喧嘩が嫌だから、本音を隠す、という社会は風通しが悪い社会でしょう。とはいえ、リアル世界の国会を見ていても、与党がまともに答えないため、論戦に値するものは皆無です。そのため、日本では近代劇空間が今、非常に乏しくなっています。在りし日の安倍首相は日本の近代の虚飾をひっぺがして、日本人は近代などには一歩も足を踏み入れたことはなかったのだ、ということを力づくで示したのです。近代風に見えたのは、西洋人の物まねがうまくいっていただけだったのでした。しかし、安倍政権と対峙した人々の中に真の近代意識が芽生えてきたのだと私は思います。つまり、18世紀フランス社会の位置に日本人はたどりついたのです。今の日本政府には近代人に値するものはほぼないと言って過言ではありません。先述の通り、しかし、これは首相を含めて日本政府が突出して愚かである、というよりも日本人全体がそうだということなのです。
近代劇には人間の根源的な欲求がぶつかり合う世界が描かれており、そこには「会話」だけではない、舞台上の「沈黙」と挙動があります。ここが重要です。人間である限り、経験値も知識も違っており、そうした人間同士が真の理解に達するためには、互いに意見をぶつけ合い、時には怒ったりするシーンもあって当然です。けれども、そこで粘りが必要です。対立葛藤を避けた社会に真の発展はないと私は思います。近代劇はそうした人間の葛藤と克服を教えてくれる芸術です。たとえば、英国の戦後演劇はまさに激しい対立葛藤で満ちています。しかし、彼らはまた出口をも真摯に模索しました。そうした優れた近代劇の遺産は豊富にあるのです。そして、近代劇はまだ命があるばかりか、今のような時代にこそ、もう一度その輝きを取り戻せる復権の時ではないでしょうか。私はそんな風に思っています。そこにこそ、未来が開けてくると思うのです。
村上良太
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