2023年09月07日14時38分掲載
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アジア
新生カンボジア30周年(3)「カンボジアは地雷だらけ」の虚構と高田さん殺害事件 宇崎真
1993年5月4日、カンボジアPKO(国連平和維持活動)に派遣されていた文民警察官の高田晴行警部補(当時)が西北部バンテアイミエンチャイ省のアンピル付近の路上を走行中クメールルージュ(ポルポト派)の銃撃で殺害された。日本を揺るがす事件であった。
このニュースを筆者はバンコクで同日午後知った。その数日前まで西北部のタイ国境地帯に取材で行ってそのまとめのためバンコクの事務所に戻ってきていたのだ。即日夕刻から四輪駆動のパチェロでまず国境の町アランヤプラテートに向かった。当然国境のイミグレオフィスは閉まっており、ゲリラや村人がつかうルートでカンボジアに入った。真夜中の国境越えである。前方のライトが照らす赤土の小道にもドクロマークの地雷立て札が林立している。「地雷原」の草原も構わず突っ切って進んだ。
途中で夜明けを待ち、視界が開けると同時にアンピル方向に向かった。左側に巨大なアンコール時代の遺跡バンテアイチマールが見えてきた。クメールルージュ取材の合間に二度訪れ、盗掘跡に心痛め、荘厳な美に感嘆もしたアンコール文明を代表する遺跡である。だが今回は立ち寄る余裕はない。
961号道路は二車線でもうもうと砂煙が舞い上がる未舗装道である。三派連合政府が抑えている地域だが内部では圧倒的な戦闘力を保持するクメールルージュが断然強い。あるいは「表の政治と外交はシアヌーク派、裏は軍事のポルポト派」が動かすという図式といってもいい。一瞬にして砲声と銃撃で血塗られた現場に近づくにつれ奇妙な感覚に襲われた。沈黙が支配している。不気味な静けさである。
襲撃事件後ポルポト派は「国連軍の報復がある」として姿を消した。国連軍は「また待ち伏せ攻撃がある」とみて救援活動さえ鈍った。戦闘に不慣れなシアヌーク派もそそくさと安全な場所に引き揚げた。だから翌朝の事件現場は各勢力が逃げた直後の真空状態であった。現場検証の姿も形跡も全くない。少なくとも現場から数キロの範囲で「厳重警戒体制が敷かれ接近するのも難しいだろう」と予想していた筆者はいささか面くらった。もぬけのからといっていい。これだけの重大事件なら何が何でも現場に急行するはずの報道陣の影もかたちもなかった。
事件現場の様子と何故銃撃事件が起きたのか、日本政府の対応はどこでどう間違ったのか、あるいは不十分だったのか。なぜ殺害事件の被害者に対しても「口外無用」の態度をとったのか。ここは稿を改めて詳述していきたい。本稿では「地雷だらけ」の虚構、虚説を更に明らかにしていきたい。
自衛隊派遣の際には「3百万、4百万の地雷」が検証なしに前提とされた。国連軍がカンボジアに大挙入ってくるとその司令官ジョン・サンダーソン(オランダ軍中将)は「一千万かそれ以上」と言った。18か月経って「UNTAC統治のもとでカンボジアの再生は成功した」と退去していくまでに一体どれだけ地雷を撤去していったのか。国連は一切その数字を明らかにはしなかった。というよりもとからその方針も、体制もなかったのだ。UNTAC明石代表も、日本の世論を十分踏まえている筈なのに、殆ど「地雷」については語っていない。
国連軍関係者からの「内部情報」によると、「約3万発撤去」だったという。では少なくとも997万の地雷をそのままにしていったのか。
そこで、国連と国際社会は「あとはカンボジア自身の力で解決させる。そのためにCMAC(カンボジア地雷除去センター)を組織化し国際社会が財政的に支える」ことにした。職員3千人とトヨタランドクルーザーはじめ7百台の組織が生まれた。だが、じきにこの組織は壮大なる汚職と腐敗の巣と化した。あまりに酷い腐敗に困り憤った欧州の支援国は援助をストップする。次々に援助を中止した国際社会のなかで、なおも援助を続けてきた国が日本である。日本政府もその実態を当然知っていたとみていい。何故なら何とかCMAC をまともな組織にしようと自衛隊の地雷専門家をJICAを通して送り込んでいたからだ。
21世紀が始まる頃に筆者はカンボジアで何度も取材する機会があった。プノンペンでそのJICA派遣の地雷専門家A氏とも会って話をした。
「ところで、カンボジア国内に地雷はどのくらい残っているとみておられますか」という質問に対しA氏はあいまいな答えに終始した。そこで筆者は「たいして無いですよね」と突っ込んでいく。しばらく話し合ったあとA氏は興味深いことを言った。
「日本の記者諸君に、このCMACをたたいて欲しいくらいです。なんでこの事実を追及してくれないのか。私ども内部から変えようとしてもどうにもならない。有った筈の地雷地図、撤去記録も無くなっていた」。
この時期、小渕首相が日本の最高首脳として初の公式訪問をおこない、シエムレアップでフンセン首相と並んで「地雷撤去」に立ち会い「今後の援助継続」をうたった。(2000.1.12)
このときの地雷も前日カンボジア側が植えた地雷であると軍関係者から聞いていた。
またその前年雨季にアンコール遺跡の外側にある五大遺跡の調査、取材をしたときに、コーケー遺跡にヘリコプターで行った。三十年は外部の人間は入っていない場所で、取材班はまず遺跡への道を切りひらく伐採から開始せざるを得なかった。その取材の後3週間して筆者はそこを再度訪れることになった。我々が切りひらいた土地は「地雷マーク」の立て札が密集していた。地元の行政官らはさすがにバツが悪いのか「いえ、あの、来週国連調査団がここにやってくるとの連絡があったので」と証言した。「地雷だらけの国」はこうして都市部以外の地方の村々、過疎地で演出されていった。
2001年TBS 50周年特番「地雷ZERO 21世紀最初の祈り」の番組ディレクターからコーディネートを依頼された。筆者は「やってもいいけれど、地雷は殆どない、ということになりますよ」「でも、坂本龍一さんにテーマソングも創ってもらっているし、営業が張り切ってスポンサーも決めてきているのです」
「やるのなら別の人に頼むしかありませんね」ということになった。
そのディレクター氏とはそれきりとなったが、二年程してインドネシアのスマトラ島コタバンジャンダム建設をめぐるODA問題の取材現場でばったり出会ってしまった。「地雷番組どうでしたか」「いやあ、本当にないんですよね。苦労しました」
英国BBCもダイアナ妃 (1961-97)追悼も兼ねた地雷キャンペーン番組をやることになり、そのディレクター氏が「状況を聞かせてほしい」となった。この時は大激論となったが、BBCの側にも「地雷だらけ」という根拠は何もなかった。
最悪な非人道的武器である地雷は報道陣の手足をしばり、感覚を麻痺させる強力な武器でもある。 (つづく)
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